誰に背いた曹子建

(曹)植嘗乗車行馳道中、開司馬門出。太祖大怒、公車令坐死。由是重諸侯科禁、而植寵日衰。
【注】
魏武故事載令曰「始者謂子建、兒中最可定大事。」又令曰「自臨菑侯植私出、開司馬門至金門、令吾異目視此兒矣。」又令曰「諸侯長史及帳下吏、知吾出輒將諸侯行意否?從子建私開司馬門來、吾都不復信諸侯也。恐吾適出、便復私出、故攝將行。不可恆使吾以誰為心腹也!」
(『三国志』巻十九、陳思王植伝)

先日、この曹植が「馳道」(首都にある天子専用の道)を勝手に通ったことについて曹操が激怒したという話について、その「馳道」があった都はどこなのか、という話をツイッター上で行った。



それは漢の皇帝のいる許、または漢の皇帝がいるべき洛陽なのか、それとも曹操がいたであろう鄴なのか。





思うに、当時の魏国は天子の王朝と限りなく近い制度を用いる漢初の諸侯王の制度に従っており、その国における君主だけが通れる道として「馳道」もあったのではなかろうか。



また、それが皇帝にしろ魏王にしろ、君主ただひとりが使える道をそれ以外の者が勝手に使うのは重罪である。漢の皇帝の道を勝手に使うというのは、曹植が漢の皇帝の権威を全く無視し、完全に泥を塗りたくるような行為を行ったことになるだろう。



いくら漢の権威がどうしようもなく落ちていた時とはいえ、漢王朝の権威を踏みにじる不敬と不忠の極み、大逆行為である。


曹丕による簒奪劇の際、漢の献帝の喪に服そうとしたという話の残る曹植にはそぐわない話ではないか。




それに対し、魏国における魏王曹操の「馳道」であれば、曹植が背いたのは魏国の権威であり、「王子が父に甘えてやらかした」と見る事もできる。



少なくとも、漢の権威に唾する大逆とまではいかない。




こういった面から、ここの「馳道」は魏国における魏王の「馳道」ではないか、と考える。