小さな功績

五月、漢王引兵從故道出襲雍。雍王邯迎撃漢陳倉、雍兵敗、還走。戰好畤、又大敗、走廢丘。漢王遂定雍地。東如咸陽、引兵圍雍王廢丘、而遣諸將略地。
(『漢書』高帝紀上)

漢の高祖劉邦元年、劉邦は兵を率いて雍すなわち関中を急襲した。

須昌貞侯趙衍
以謁者漢王元年初從起漢中。雍軍塞渭上、上計欲還、衍言從它道、道通、後為河間守、豨反、誅都尉相如、功侯、千四百戸。
(『漢書』高惠高后文功臣表)

この須昌貞侯趙衍の記事を見ると、どうやら雍王章邯は道を封鎖していたらしく、劉邦は退却も検討したようだ。
そのとき封鎖されていない他の道の存在を指摘して急襲を成功に導いたのが趙衍だったというのである。
この話は功臣表でしか見ることができないようだ。

意外によく分からない部分の多い劉邦の関中奪還戦の一端が垣間見えるエピソードである。