『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その23

その22(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181126/1543158322)の続き。





春正月、羽陽尊懷王為義帝、徙之長沙、都郴。
羽自立為西楚霸王、王梁・楚地九郡、都彭城。
立沛公為漢王、王巴・蜀・漢中四十一縣、都南鄭。
三分關中、立秦三將、章邯為雍王、司馬忻為塞王、董翳為翟王。
黥布為九江王。
徙趙王歇為代王、立張耳為常山王。
徙魏王豹為西魏王。
徙燕王廣為遼東王、燕將臧荼為燕王。
徙齊王市為膠東王、齊將田都為齊王。
趙將司馬邛數有功、立為殷王。
瑕丘申陽先下河南、迎楚王於河上、立陽為河南王。
呉芮率百越佐諸侯、立芮為衡山王。
義帝柱國共敖、別將撃河南功多、立敖為臨江王。
舊齊王建之孫田安、初以濟北數城降、立為濟北王。
田榮背項梁、陳餘不從入關、故皆不王、然素聞餘賢、封南皮三縣。
為鄱君別將枚豉功多、封十萬戸侯。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第二)


項羽、主君の楚王を「義帝」として長沙に移す。それまで楚の懐王がいた彭城は項羽自らの領土としたようだ。



また項羽は「梁・楚地九郡」の王であり、楚だけでなく旧名で言えば魏の領域の一部も支配した事になる。魏王豹を西魏王に移した、というのは、魏の東側は項羽自身の領土にした、と言う事だろう。



そして劉邦を漢王、章邯らを関中の王にした。




こうして見ると、項羽劉邦以上に楚の懐王に対して厳しい態度で臨んでおり、また戦国時代の王の末裔が王に立てられていた場合、それを押しのけて項羽自身かその腹心や縁故を王に立てている。




つまり、項羽は本来の楚の臣下たちからも、劉邦のような本来同格であったはずの将からも、戦国時代の王の流れを汲む勢力からも、不満を抱かれてしかるべき仕置をした、という風に思えるのである。





王になってもおかしくない実力者の田栄・陳余を事実上無視した事といい、各地に爆薬と導火線を設置して回っていたような感じだったのかもしれない。