『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その61

その60(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/19/000100)の続き。





九月、陳豨接下賓客、從車千餘乗。
初豨適代時、辭淮陰侯韓信韓信既廢、恐懼怨望、乃與豨謀曰、趙・代精兵處也。公反于外、上必自出。吾從中起、天下可圖也。
豨反、上欲自撃之。建成侯周惞泣曰、陛下常自行、是無人可使。初惞從上、毎有不利、終無離上之心。上以為愛我、賜上殿不趨。
上遂東至邯鄲、選壯士可令將者四人、各封千戸侯。左右皆曰、此人何功而封千戸。上曰、非爾所知。夫陳豨反、趙・代皆豨之有、吾以羽檄徴天下兵、未有至者。今獨邯鄲中兵至、吾何愛四千戸、不以慰趙子弟心乎。復求樂毅之後、得樂叔、封樂郷侯、號曰華成君。令吏民為豨所劫略皆赦其罪。
問豨將皆故賈人、曰吾知易與之矣。乃多與金購豨將、將多降。
是時沛人任敖素善於上。上以客從、拜為上黨太守、堅守不下。封敖廣阿侯。御史大夫趙堯撃豨有功、封江邑侯。
詔御史曰、獄之疑者、吏或不敢決、或有死者。久而不能論、無罪者久繫。自今已後有疑獄者、各讞所屬二千石。二千石不能決、移之廷尉。廷尉不決、具奏以聞。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第四)


陳豨、反乱。その裏には淮陰侯韓信の教唆があったという。淮陰侯韓信が実際に兵を率いていたら恐ろしかった事だろうが、兵を率いるまでになるのが難しい。


陳豨に反乱を起こさせ、劉邦が征伐に向かった隙に淮陰侯韓信も挙兵するという計画だったそうだが、楚王だった時にも自分の目論みが上手く行っていないし、劉邦の自分に対する気持ちも見誤っているし、まあ危なっかしい計画である。




一方劉邦は「四人に千戸を与えたのが一番の収穫。きみたちは分からなくて結構」と言い放ったり、秦攻めの時のように敵将買収を行ったりと、なんだか貫禄が出てきた感がある。