ごく小さな功績

於是樊噲從劉季來。沛令後悔、恐其有變、乃閉城城守、欲誅蕭・曹。蕭・曹恐、踰城保劉季。
劉季乃書帛射城上、謂沛父老曰「天下苦秦久矣。今父老雖為沛令守、諸侯並起、今屠沛。沛今共誅令、擇子弟可立者立之、以應諸侯、則家室完。不然、父子倶屠、無為也」
父老乃率子弟共殺沛令、開城門迎劉季、欲以為沛令。
(『史記』高祖本紀)

秦末のこと、沛の県令は一旦は劉邦を呼び寄せながら心変わりし、城門を閉じた。
しかし住民は劉邦を選び、県令を殺すと共に城門を開いて劉邦を招き入れたのだった。


以卒從起沛、以卒開沛城門、為太公僕。以中廄令撃豨、侯、千二百戸。
十一年三月癸酉、敬侯彭祖元年。
(『史記』高祖功臣侯者表)

この戴侯彭祖(『漢書』によれば秘彭祖)が城門を開けたというのはその時のことだろう。
沛の城門を開けるというごく小さな、しかし劉邦独立の第一歩という意味では大きな功績を立てた人物の名前はしっかり残っていたのである。