さかのぼり前漢情勢30

このままいくと高祖の死まではいきそうなhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100321/1269141586の続き。


30回目は漢の景帝。

漢の景帝の時代には三回元年があり、史書上では「前元年」「中元年」「後元年」と区別している。

まず後元年以降から。

後元年以降は三年間しかなかったが、漢帝国の全国支配という点でちょっと重要な勅令がいくつか出されている。

後元年春正月、詔曰「獄、重事也。人有智愚、官有上下。獄疑者讞有司。有司所不能決、移廷尉。有令讞而後不當、讞者不為失。欲令治獄者務先𥶡」
(『漢書』景帝紀、後元年)

「讞」、つまり裁判で決定しがたい事案を上級官庁へ上申する制度である。最終的には朝廷の大臣である廷尉(大理)まで行くこともある。
これは裁判を実際に司る地方官の負担を軽減すると同時に、地方に対して中央が決定権、指導力を強めているということでもある。
地方分権から中央集権へ次第に舵が切られているのである。

二年冬十月、省徹侯之國。
(『漢書』景帝紀、後元年、二年)

「省徹侯之國」とは、徹侯(列侯)は領国へ実際に居住することが原則だったものが、それが撤廃されたということである(「之」は「行く」の意味)。
官僚となっている者はもちろん、それ以外の列侯もできることなら僻地の領国よりも長安近辺に住む方を望む者が多かったに違いない。
列侯の領国が実際に統治する領地からほとんど名目上のものへと変わっていく契機だったと言えるだろう。
微妙な変化ではあるが、これもまた中央への一極集中に拍車をかける措置である。

五月、詔曰「人不患其不知、患其為詐也。不患其不勇、患其為暴也。不患其不富、患其亡厭也。其唯廉士、寡欲易足。今訾算十以上乃得宦、廉士算不必衆。有市籍不得宦、無訾又不得宦、朕甚愍之。訾算四得宦、亡令廉士久失職、貪夫長利。
(『漢書』景帝紀、後二年)

これまで、漢において官僚となるには相応の財産家であることが条件だった。
服虔、応劭注によれば、「訾算十」とは「所有する財産十万銭相当」のことだそうだ。(どうやら、「銭一万」ごとに財産税が課せられたらしい。)
つまり十万銭相当の財産家でないと官僚にはなれなかったのだ。
「衣食足りて礼節知る」との言葉に沿うものであるが、一方で低い地位、少ない財産で苦学する者への門戸を閉ざしていたことも事実であった。
これを半分以下の「訾算四」によって仕官可能としたことで、苦学生が仕官する道が開けたのである。

その後、武帝の時代の公孫弘など、この時の勅令がなかったら仕官できなかったであろう人物はしばしば現れる。
皇帝が幅広く人材を集めるというばかりではなく、財産の無い者でも学問によって栄達しうるという意味では、階層の流動化を促したとも言えるだろう。


景帝の後元年以降は、呉楚七国の乱を終え、きたるべき武帝時代を控えて漢帝国に細かな(しかし重要な)バージョンアップが重ねられていたようである。