さかのぼり前漢情勢29

三月中に終わるんだろうかと疑問のhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100318/1268838651の続き。


漢の武帝の時代も残り十二年ほど。元朔の前は元光、その前は建元。

建元は後からの命名であるが世界最初の元号ということになる。
命名までは「一元」「二元」と呼んでいたようであるが、それが増えるにしたがって混乱や煩雑さが増し、それぞれに呼び名を付けた方が分かりやすいということになったのだろう。

武帝は父景帝の後三年正月に父の死によって即位した。武帝は十六歳。
この時、武帝には実母の皇太后王氏のほか、祖母すなわち太皇太后竇氏がいた。

太皇太后竇氏は黄帝老子の言葉を好み、一族に老子を学ぶよう強制したという。

だが、若い武帝を補佐するために選ばれた丞相である竇嬰は、太皇太后竇氏の一族でありながら儒学を好む異端児であった。彼は皇太后王氏の異父弟である太尉田蚡らと共に儒者を推すと共に、もはや過去の遺物のように感じられていただろう太皇太后竇氏への上奏をとりやめようと画策して逆に太皇太后の怒りを買って失脚した。

まだ若い武帝がこれにどこまで関わっていたかよく分からないが、武帝最初の挫折だったと言えるかもしれない。
また、武帝儒者を優遇した背景には、外戚の竇嬰・田蚡が儒学を好んでいて、そこから色々と情報なりコネクションなりを仕入れたという面もあったのかもしれない。


ともあれ、武帝が独自性を強く発揮するようになるのは太皇太后竇氏の退場を待つしかなかった。

それが建元六年の太皇太后竇氏の崩御であった。
翌元光元年、早速武帝はおそらく今までは出来なかったであろう取り組みを始める。賢良への対策である。

五月、詔賢良曰「(略)賢良明於古今王事之體、受策察問、咸以書對、著之於篇、朕親覽焉」於是董仲舒・公孫弘等出焉。
(『漢書武帝紀、元光元年)

対策とは「策書」によって皇帝から下される質問に文書によって答える(「対」)ものであった。
儒者董仲舒・公孫弘が揃ってここで見出されたというのが象徴するように、この対策形式は儒者に有利な形式だったようだし、武帝の側も儒者を(というか今までの黄老主義以外の者を)選ぼうという志向があったのだろう。


そしてその翌年元光二年には、武帝時代を特徴付けるもう一つの決定がなされている。

春、詔問公卿曰「朕飾子女以配單于、金幣文繍賂之甚厚、單于待命加嫚、侵盜亡已。邊境被害、朕甚閔之。今欲舉兵攻之、何如?」大行王恢建議宜撃。
夏六月、御史大夫韓安國為護軍將軍、衛尉李廣為驍騎將軍、太僕公孫賀為輕車將軍、大行王恢為將屯將軍、太中大夫李息為材官將軍、將三十萬衆屯馬邑谷中、誘致單于、欲襲撃之。單于入塞、覺之、走出。六月、軍罷。將軍王恢坐首謀不進、下獄死。
(『漢書武帝紀、元光二年)

匈奴に対してこちらから攻撃を加える決定である。
これまでは匈奴には漢の側が贈り物をするという状況であったが辺境での略奪が無くなったわけではなかった。
武帝は高祖以来匈奴に対し下手に出ていたのを転換し、こちらから攻め込もうとしたのである。

これは武帝の功名心、プライドという面ばかりではなく、こういう側面もあったと思われる。

武帝之初七十年間、國家亡事、非遇水旱、則民人給家足、都鄙廩庾盡滿、而府庫餘財。京師之錢累百鉅萬、貫朽而不可校。太倉之粟陳陳相因、充溢露積於外、腐敗不可食。
(『漢書』食貨志上)

当時、倉庫には税収である銭や穀物が集まり、使われもしないまま放置されるほどであったというのだ。
これはこれで異常な事態であるが、高祖以来の皇帝たちがいつの日か匈奴に反攻するために蓄積したものだと考えることもできる。
呂后にも文帝にも、一度は匈奴と対決しようという気持ちがあり、それを他の者に止められたことがあるのだ。
匈奴に勝つことは、高祖や呂后の屈辱以来、漢歴代皇帝の悲願だったのである。
武帝はその悲願をいよいよ達成するだけの蓄積を先代から与えられていたのだ。

その悲願は最初の策略こそ失敗したが、衛青を得たことでいよいよ現実のものとなるのだった。