さかのぼり前漢情勢31

最近は連続で更新する方が珍しいhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100322/1269227518の続き。


漢の景帝、中元年から後元年まで。

この数年間は、官名の改称がいくつか行われている。

(中二年)秋七月、更郡守為太守、郡尉為都尉。
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三年冬十一月、罷諸侯御史大夫官。
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(中五年)更名諸侯丞相為相。
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(中六年)十二月、改諸官名。
(『漢書』景帝紀

この時期といえば呉楚七国の乱が集結した後であり、言うまでも無く諸侯王と漢の力関係が決定的に変化した時期である。

つまり諸侯王が漢に真っ向から歯向かうなど考えることも出来なくなったということであり、漢王朝としてはそれを誰の目にも見える形にしておきたかった。一種の勝利宣言だ。
おそらくそれが諸侯王の丞相を相と改名し、御史大夫を廃止した理由だろう。
諸侯王の国政は漢の派遣する相が全面的に管理することとなり、今まで以上に諸侯王自身が関わることが困難になったのである。

と同時に、漢の諸官も改名することで諸侯王との差別化を図った。もしかすると秦との差別化も意図していたのかもしれない。


官僚制度という点では、以下のような勅令もなされていて興味深い。

五月、詔曰「夫吏者、民之師也、車駕衣服宜稱。吏六百石以上、皆長吏也、亡度者或不吏服、出入閭里、與民亡異。令長吏二千石車朱兩轓、千石至六百石朱左轓。車騎從者不稱其官衣服、下吏出入閭巷亡吏體者、二千石上其官屬、三輔舉不如法令者、皆上丞相御史請之」
(『漢書』景帝紀、中六年)

「吏六百石」というと県令などであり、世間一般からすれば高官である。漢は彼ら高官に対し、相応の格式の馬車や衣服を用いることを強制したのである。
漢の皇帝を最上位とした秩序のタガを締めなおそうという意図があるのではなかろうか。
おそらくは、秦始皇帝によって一度は定められた秩序がその後の戦乱で緩んでいたのだろう。
自由な時代だったのかもしれないが、支配する側にとっては望ましくなかったのだ。


景帝時代は着々と漢による再統一、全国支配が進んでいるという印象がある。
派手さは無いが堅実というところか。