長年の疑問

主爵中尉、秦官、掌列侯。
景帝中六年更名都尉、武帝太初元年更名右扶風、治内史右地。
屬官有掌畜令丞。又右都水・鐵官・廐・廱廚四長丞皆屬焉。
與左馮翊・京兆尹是為三輔、皆有両丞。
列侯更屬大鴻臚。
元鼎四年更置三輔都尉・都尉丞各一人。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)

いつ見ても、秦・前漢にあった官「主爵都尉(主爵中尉)」の説明は摩訶不思議だ。



なんで「列侯(の管理?)を司る」官がある時から首都圏の長官の一人になってしまうのか?



名前まで変わってるから、継続性が何一つ感じられないではないか*1




内史(首都圏)右地はもともと列侯だらけで主爵都尉が管理している土地だったとでも言うのだろうか・・・?


それとも、武帝太初元年に組織改編して、主爵都尉のオフィスや人員をまるごと内史右地の役所に転用したという事なのだろうか・・・?




もう四半世紀くらい首をひねり続けている。

*1:一時的に列侯の管理と内史右地の統治とどちらもやっていたかもしれないが、それはそれで1つの官庁に職務を盛りすぎではないかという問題が生じる。