『漢書』景帝紀を読んでみよう:その6

その5(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171106/1509894274)の続き。




中元年夏四月、赦天下、賜民爵一級。
封故御史大夫周苛・周昌孫子為列侯。
二年春二月、令諸侯王薨・列侯初封及之國、大鴻臚奏諡・誄・策。列侯薨及諸侯太傅初除之官、大行奏諡・誄・策。王薨、遣光祿大夫弔襚祠賵、視喪事、因立嗣子。列侯薨、遣大中大夫弔祠、視喪事、因立嗣。其葬、國得發民輓喪、穿復土、治墳無過三百人畢事。
匈奴入燕。
改磔曰棄市、勿復磔。
三月、臨江王榮坐侵太宗廟地、徴詣中尉、自殺。
夏四月、有星孛于西北。
立皇子越為廣川王、寄為膠東王。
秋七月、更郡守為太守、郡尉為都尉。
九月、封故楚・趙傅相内史前死事者四人子皆為列侯。
甲戌晦、日有蝕之。
(『漢書』巻五、景帝紀

景帝中元年、中2年。




文帝は生存中に再度「元年」を称し、それ以前を「前○年」、以後を「後○年」と呼ぶようになった。



同様に、景帝もここで再度「元年」を称したのである。



「後○年」でなく「中○年」なのは、後にまた「元年」を称するからである。




漢ではそれまで処刑方法の中に「磔刑」があったようだが、「棄市」すなわち市場での公開斬首と晒し首を最上の刑罰とし、磔刑を廃止したということである。



何かで聞いたところでは磔刑は苦しみがとても長く続くそうなので、この改正はいわば人道的見地によるものなのであろう。



臨江王栄というのは元の皇太子である。つまるところ、朝廷としては後継者問題が再燃しないように「始末」した、ということなのだろう。




「太守」「都尉」という官名はここから始まる。それまでは「郡守」「郡尉」と呼んでいた。




「封故楚・趙傅相内史前死事者四人子皆為列侯」というのは、いわゆる呉楚七国の乱において王の反乱に際して殉職した王国の大臣たちの子を、父の功績によって列侯に取り立てたということである。


本人が死んでも子孫に忠節や功績に対する恩賞が与えられる、ということである。




中元年、封故御史大夫周苛孫平為繩侯、故御史大夫周昌孫左車為安陽侯。
四月乙巳、赦天下、賜爵一級。除禁錮
地動。
衡山・原都雨雹、大者尺八寸。
中二年二月、匈奴入燕、遂不和親。
三月、召臨江王來。即死中尉府中。
夏、立皇子越為廣川王、子寄為膠東王。封四侯。
九月甲戌、日食。
(『史記』巻十一、孝景本紀)

史記』も概ね同じ内容だが、多少異同もあるのが面白いところだ。