孫晧の王その2

(元興元年)十月、封(孫)休太子𩅦為豫章王、次子汝南王、次子梁王、次子陳王、立皇后滕氏。
(『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧

(甘露元年)秋七月、(孫)晧逼殺景后朱氏、亡不在正殿、於苑中小屋治喪、衆知其非疾病、莫不痛切。又送(孫)休四子於呉小城、尋復追殺大者二人。
(『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧


あれ?

孫休の子供たち(自分だけのオリジナル諱と字をもらった人たち)、上二人(予章王と汝南王?)は殺されたとわかるが、では下二人がどうなったかについては不明なのか?



後から殺されたのだとしても不思議ではない、というかそう考えてしまうところだが、実際には殺されずに王のままであったとしても矛盾はしないことになるのか?