『晋書』武帝紀を読んでみよう:その20

その19(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/14/000100)の続き。





七年春正月丙午、皇太子冠、賜王公以下帛各有差。
匈奴帥劉猛叛出塞。
三月、孫晧帥衆趨壽陽、遣大司馬望屯淮北以距之。
丙戌、司空・鉅鹿公裴秀薨。
癸巳、以中護軍王業為尚書左僕射、高陽王珪為尚書右僕射。
孫秀部將何崇帥衆五千人來降。
夏四月、九真太守董元為呉將虞氾所攻、軍敗、死之。
北地胡寇金城、涼州刺史牽弘討之。羣虜内叛、圍弘於青山、弘軍敗、死之。
五月、立皇子憲為城陽王。
雍・涼・秦三州饑、赦其境内殊死以下。
閏月、大雩、太官減膳。詔交趾三郡・南中諸郡無出今年戸調。
六月、詔公卿以下舉將帥各一人。
辛丑、大司馬義陽王望薨。
大雨霖、伊・洛・河溢、流居人四千餘家、殺三百餘人、有詔振貸給棺。
秋七月癸酉、以車騎將軍賈充為都督秦・涼二州諸軍事。
呉將陶璜等圍交趾、太守楊稷與鬱林太守毛炅及日南等三郡降於呉。
八月丙戌、以征東大將軍衛瓘為征北大將軍・都督幽州諸軍事。
丙申、城陽王憲薨。
益州之南中四郡置寧州、曲赦四郡殊死已下。
冬十月丁丑、日有蝕之。
十一月丁巳、衛公姫署薨。
十二月、大雪。
罷中領軍、并北軍中候。
以光祿大夫鄭袤為司空。
(『晋書』巻三、武帝紀)

泰始7年。



尚書右僕射となった高陽王司馬珪は安平王司馬孚の子。王でありながら皇帝の尚書になっているのである。




涼州刺史、また死ぬ。今回死んだ牽弘も先の胡烈と同じく蜀漢攻めに参加した将。



一方、呉は活動が活発になっている模様。「寿陽」というのは寿春の事。


華陽國志曰、(楊)稷、犍為人。(毛)炅、建寧人。稷等城中食盡、死亡者半、將軍王約反降、呉人得入城、獲稷・炅、皆囚之。孫晧使送稷下都、稷至合浦、歐血死。晉追贈交州刺史。初、毛炅與呉軍戰、殺前部督脩則。陶璜等以炅壯勇欲赦之。而則子允固求殺炅、炅亦不為璜等屈、璜等怒、面縛炅詰之曰「晉賊!」炅厲聲曰「呉狗、何等為賊?」呉人生剖其腹、允割其心肝、罵曰「庸復作賊?」炅猶罵不止曰「尚欲斬汝孫晧、汝父何死狗也!」乃斬之。晉武帝聞而哀矜、即詔使炅長子襲爵、餘三子皆關内侯。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝注引『華陽国志』)


呉に降った鬱林太守毛炅は呉で生きながら解剖されたという話が『華陽国志』に残っているそうな。




中軍将軍に続き、中領軍も廃止されて職務は北軍中候に併合されたとの由。このあたりよくわからないが、後漢では北軍中候の仕事だった事が、魏末から晋初にかけては中軍将軍と中領軍に分かれていたという事なのだろうか。





この年は北も南も晋が苦しい状態の一年であったようだ。