孫晧の王

建衡元年春正月、立子瑾為太子、及淮陽・東平王。
(『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧

鳳凰二年)秋九月、改封淮陽為魯、東平為齊、又封陳留・章陵等九王、凡十一王、王給三千兵、大赦
(『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧

(天紀)二年秋七月、立成紀・宣威等十一王、王給三千兵、大赦
(『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧

(天紀)四年春、立中山・代等十一王、大赦
(『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧

呉の孫晧はかなり多数の王を立てたとされている。



ところで、この王たちは孫晧にとってどんな関係だったのだろうか?




『晋書』王濬伝の「偽太子瑾・瑾弟魯王虔等二十一人」という記述から、魯王は孫晧の子で間違いないのだろうと思うのだが、他の王は上記の記述を見る限りではどこにも孫晧の子とわかるようにはなっていないように思える。



例えば孫晧には死亡時期等が不明な弟孫徳がいるのだが、この弟孫徳やその子などが王になっていてもおかしくないのではないだろうか?



また、孫晧の直系としても「孫」という可能性も無くはないのではないだろうか?



そもそも孫氏以外王になっていないとも断言できないかもしれない。ほとんどの王は誰が封建されたのかわからないのだから。




少なくとも、『三国志』を見る限りでは、孫晧が立てた王が「全て孫晧の子」という証拠がどこにもない、と思う。