同じ4人か

呉録載(孫)休詔曰「人之有名、以相紀別、長為作字、憚其名耳。禮、名子欲令難犯易避、五十稱伯仲、古或一字。今人競作好名好字、又令相配、所行不副、此瞽字伯明者也、孤嘗哂之。或師友父兄所作、或自己為。師友尚可、父兄猶非、自為最不謙。孤今為四男作名字。太子名𩅦、𩅦音如湖水灣澳之灣、字莔、莔音如迄今之迄。次子名𩃙、𩃙音如兕觥之觥、字𧟨、𧟨音如玄礥首之礥。次子名壾、壾音如草莽之莽、字昷、昷音如舉物之舉。次子名𠅨、𠅨音如褒衣下寬大之褒、字㷏、㷏音如有所擁持之擁。此都不與世所用者同、故鈔舊文會合作之。夫書八體損益、因事而生、今造此名字、既不相配、又字但一、庶易棄避、其普告天下、使咸聞知。」
(『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫休、永安五年注引『呉録』)

(元興元年)十月、封(孫)休太子𩅦為豫章王、次子汝南王、次子梁王、次子陳王、立皇后滕氏。
(『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧


孫晧の時に王になった孫休の子4人については、上の『呉録』所収の詔にある4人に対応するものと皆考えているし、まあきっとそうなのだろう、とは思う。



だが、そもそも『三国志』本文ではオリジナル諱・字を貰った子が4人ということ自体載っていないはずだし、書の来歴が違う以上、完全な対応関係にあるとは限らないのではないか。



つまり、永安5年に名を貰った子4人のうち、太子以外については病死とその後の出生などによって入れ替わっていて、王になった4人とは一致していない可能性も否定はし切れないのではないか?



そもそも孫休の男子が4人以外に全くいなかったとも限らないし。永安5年に名を貰ったのが4人なだけで。





これ以上決め手になる証拠は存在しないかもしれないが、だったらなおのこと安易な断定には慎重になるべき・・・かもしれん。