『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その7

その6(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/03/27/000100)の続き。





熹平元年春三月壬戌、太傅胡廣薨。
夏五月己巳、大赦天下、改元熹平。
長樂太僕侯覽有罪、自殺。
六月、京師雨水。
癸巳、皇太后竇氏崩。
秋七月甲寅、葬桓思皇后。
宦官諷司隸校尉段熲捕繫太學諸生千餘人。
冬十月、渤海王悝被誣謀反。丁亥、悝及妻子皆自殺。
十一月、會稽人許生自稱「越王」、寇郡縣、遣楊州刺史臧旻・丹陽太守陳夤討破之。
十二月、司徒許栩罷、大鴻臚袁隗為司徒。
鮮卑并州
是歳、甘陵王恢薨。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)


改元して熹平元年。


熹平元年、太后母卒於比景、太后感疾而崩。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、桓思竇皇后)


太后、死す。母が配流先(比景県は日南郡つまりベトナムの方にあった)で死んだ事が原因という。気落ちしたのか、それとも後を追ったのか、はたまた始末されたのか。

熹平元年、竇太后崩、有何人書朱雀闕、言「天下大亂、曹節・王甫幽殺太后、常侍侯覽多殺黨人、公卿皆尸祿、無有忠言者。」
於是詔司隸校尉劉猛逐捕、十日一會。猛以誹書言直、不肯急捕、月餘、主名不立。猛坐左轉諫議大夫、以御史中丞段熲代猛、乃四出逐捕、及太學游生、繫者千餘人。節等怨猛不已、使熲以它事奏猛、抵罪輸左校。朝臣多以為言、乃免刑、復公車徴之。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝、曹節

どうやら、当時「皇太后曹節らの宦官たちによって殺された」という認識が一部にはあったらしい。その真偽は分からないが、まだそこまでの高齢でもなさそうな皇太后が死んだのだから憶測を呼ぶのも仕方ないところだろう。



なお、上記の落書の中で一緒に批判されたりもしていた侯覧も宦官である。


初、中常侍王甫枉誅勃海王悝及妃宋氏、妃即后之姑也。甫恐后怨之、及與太中大夫程阿共構言皇后挾左道祝詛、帝信之。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、霊帝宋皇后)


勃海王悝とは桓帝の弟で、その王妃である宋氏は宋皇后の叔母である。宦官王甫は宋皇后が王妃宋氏の件で復讐するのではないかと恐れ、宋皇后を先手必勝で消してしまおうとした、というのである。


會稽妖賊許昌起於句章、自稱陽明皇帝、與其子詔扇動諸縣、衆以萬數。(孫)堅以郡司馬募召精勇、得千餘人、與州郡合討破之。是歳熹平元年也。刺史臧旻列上功狀、詔書除堅鹽瀆丞、數歳徙盱眙丞、又徙下邳丞。
(『三国志』巻四十六、孫堅伝)


会稽の許生らの反乱は、あの孫堅が討伐側で参戦した事で有名である。



また、司徒袁隗はあの袁紹の叔父。