呉王主従の怒り

楚王彪字朱虎。建安二十一年、封壽春侯。黄初二年、進爵、徙封汝陽公。三年、封弋陽王。其年徙封呉王。五年、改封壽春縣。
(『三国志』巻二十、楚王彪伝)

魏の曹彪(曹操の子)は、黄初3年に呉王になっている。



是月、孫權復叛。復郢州為荊州。帝自許昌南征、諸軍兵並進、權臨江拒守。
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初三年十月)

この年、呉王孫権が背いた(魏視点)という事なので、曹彪が呉王になったというのはこれを受けて孫権の代わりの呉王にした、という事だろう。



そしてこの時、孫権の呉王国を分解したとかいった記事などがない。明記されていない以上、無いとも断言はできないものの、孫権から王国を取り上げる措置は、この曹彪封建だけで十分だったのだろう。



そして、他の王の例から見て、曹彪の呉王国もおそらくはあまり大きな領土は持っていなかっただろう。という事は、曹彪の前の呉王であった孫権の呉王国も、小さな王国だったんじゃないだろうか、と思う。




江表傳曰、(孫)權羣臣議、以為宜稱上將軍九州伯、不應受魏封。權曰「九州伯、於古未聞也。昔沛公亦受項羽拝為漢王、此蓋時宜耳、復何損邪?」遂受之。
(『三国志』巻四十七、呉主伝注引『江表伝』)

魏が孫権を封建した呉王国が他の諸侯王(曹操の子)と同様の小さな王だったとすれば、この話の様相も変わってくる。



孫権の群臣が魏の封建を受けるな、と言ったというのも、孫権が関中ではなく漢中だけを与えられた劉邦に自分をなぞらえたのも、呉の人間からすると納得いかないくらい封建の領土が小さかったのではないか。


「自分も劉邦のように本当ならもっと広大な土地の王になれるはずだったのに」という想いが共有されているからこそ、孫権も臣下の説得のために劉邦を持ち出すのだろう。



なお、江表全域の牧、および交州の事実上の支配権を公認された事になるので、官位や権限という面だけならこれ以上ない位のものを与えられている。問題になり得るのは爵位か領土という事だ。




実際の領土としても、曹操の子と同等にしか扱われていないという体面の点でも、小さな呉王国というのは孫権主従には納得がいかない封建だったのではなかろうか。



何しろ曹操の魏国は10郡分の領土があった。孫権主従としてはそれと同等に支配圏全域の王になれると思っていたのではないだろうか。


それに対し、魏は牧位によって支配は公認したが、大部分は世襲は認めなかった、という事になる。



そりゃ怒る。





何となくだが、そんな風に考えてみた方が孫権主従の動向が納得いくような気がする。