一転残留

帝欲封(孫)權子登、權以登年幼、上書辭封、重遣西曹掾沈珩陳謝、幷獻方物。
(『三国志』巻四十七、呉主伝)

孫權欲遣子登入侍、不至。
(『三国志』巻十三、王朗伝)

魏黄初二年、以(孫)權為呉王、拝登東中郎將、封萬戸侯、登辭疾不受。
(『三国志』巻五十九、孫登伝)

呉の孫権が魏帝曹丕によって呉王に封建されたとき、孫権の長子孫登は列侯に封じられようとし、同時に孫権は孫登を魏へ入朝させようと思っていたらしい。



よくよく考えると、普通は皇帝でも王でも列侯でも、後継ぎ扱いされている子は父と別個に封建されることはないのが通例であるようなので(曹丕が好例)、この孫登への扱いは実は「彼を後継ぎと思っていない」という措置だということになる。


また魏王朝に向かうというのも、まあ普通に考えて危険が伴うし、簡単に戻ってこれない人質のようなものと思われるわけだから、これもまた「彼を後継ぎと思っていない」からこそ出てくる計画ではないだろうか。



つまり魏からしても孫権からしても、この段階では孫登は絶対的な後継ぎという風には見られておらず、むしろ「後継ぎ扱いではなく、分家して人質にしてもいいという存在」だったのではないか?*1





この孫登への封建は辞退され、入朝も果たされず、それと共に孫登が王太子となるわけだが、これはそれまでの魏・孫権双方の「分家し人質としても構わない庶子」という扱いを太子へと逆転させるものと言えると思う。



実はこの時の措置は、人質として魏に事実上放逐されようとしていた孫登を王太子として恒久的に残留させるという、孫登とその一派による一種の政変だったのではないだろうか?

*1:ただし、後継ぎになりうる長子ではあるから、魏からすると呉で何かあった場合に傀儡として立てるには最適な存在と言えるので、魏にとって価値は十分あるだろう。遼東公孫氏における公孫晃がそれに当たると思う。