庶子孫登の憂鬱

昨日の続きのようなもの。



孫権が呉王になったころの孫登(まだ少年)は、長子という点では後継者候補と言うべき存在だったはずだが、その割に孫権からも魏からもそういう扱いをされていないように見える。


(徐)琨生夫人、初適同郡陸尚。尚卒、(孫)權為討虜將軍在呉、聘以為妃、使母養子登。後權遷移、以夫人妒忌、廢處呉。
(『三国志』巻五十、妃嬪伝、呉主權徐夫人)

初、(孫)登所生庶賤、徐夫人少有母養之恩、後徐氏以妒廢處呉、而歩夫人最寵。歩氏有賜、登不敢辭、拝受而已。徐氏使至、所賜衣服、必沐浴服之。登將拝太子、辭曰「本立而道生、欲立太子、宜先立后。」權曰「卿母安在?」對曰「在呉。」權默然。
(『三国志』巻五十九、孫登伝)

何故かと考えると、まず彼が既に失寵していた徐夫人を母と慕い、同時に孫権が寵愛し正妻にと考えていた歩氏には敢えて礼に差を付けるという、若くして少々可愛げの無いことをするような子だったことがあるのではないだろうか。

孫慮字子智、登弟也。少敏惠有才藝、(孫)權器愛之。
(『三国志』巻五十九、孫慮伝)


そして、孫権の次子孫慮は既に生まれている。



つまり、どんなに可愛げが無かろうが家に波乱を起こしそうだろうが「ただ一人の子だから」と確実に後継者になれる状態ではないのである。



そうなったら、正妻にしたい歩氏との関係などで問題が生じたという気配が無い(というか、孫登にとっての徐氏と同じように、孫慮とずっと正妻扱いされ続けたという歩氏の間には母養の関係があったかもしれない)孫慮の方を選ぶという選択肢が有力になってくる。



こうなると、呉王封建の際に「魏から命じられた」という形で孫登を分家として後継者第一候補から下ろし、さらに魏に送り込むという方が孫権からしても都合がいいことになってくる。




呉王封建の直前、孫登を取り巻く環境はそのようになっていたのではないだろうか。


この時期は、少なくとも後継者の座が約束された世子という扱いは実質的にはされていなかったのではないかと思う。