『三国志』武帝紀を読んでみよう:その39

その38(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/13/000100)の続き。





十九年春正月、始耕籍田。
南安趙衢・漢陽尹奉等討(馬)超、梟其妻子、超奔漢中。韓遂徙金城、入氐王千萬部、率羌・胡萬餘騎與夏侯淵戰、撃、大破之、遂走西平。淵與諸將攻興國、屠之。
省安東・永陽郡。
安定太守毌丘興將之官、公戒之曰「羌・胡欲與中國通、自當遣人來、慎勿遣人往。善人難得、必將教羌・胡妄有所請求、因欲以自利。不從便為失異俗意、從之則無益事。」興至、遣校尉范陵至羌中、陵果教羌、使自請為屬國都尉。公曰「吾預知當爾、非聖也、但更事多耳。」
三月、天子使魏公位在諸侯王上、改授金璽、赤紱、遠遊冠。
(『三国志』巻一、武帝紀)


漢陽郡(天水)の馬超クライシスは刺史韋氏恩顧の者たちの挙兵によって新たな局面を迎えた。


追い出される馬超。だが、失われたものも大きい。



そして急に元気に活躍し始める夏侯淵。えっやっぱ兵力は足りてたのかな・・・?



魏公に「金璽、赤紱、遠遊冠」が与えられたという。



金璽も赤紱(赤綬)も遠遊冠も諸侯王の格式であるらしい。



そして朝廷における序列上も魏公は諸侯王の上にあるものと定められた。



つまり、魏公はそれまでは一応は諸侯王の下の地位扱いされていたが、ここに来て完全に諸侯王より上位と規定されたという事だ。これは事実上皇帝の次という事である。




(建安)十九年夏、雒城破、進圍成都數十日、(劉)璋出降。
蜀中殷盛豐樂、先主置酒大饗士卒、取蜀城中金銀分賜將士、還其穀帛。
先主復領益州牧、諸葛亮為股肱、法正為謀主、關羽・張飛馬超為爪牙、許靖麋竺・簡雍為賓友。及董和・黃權・李嚴等本璋之所授用也、呉壹・費觀等又璋之婚親也、彭羕又璋之所排擯也、劉巴者宿昔之所忌恨也、皆處之顯任、盡其器能。有志之士、無不競勸。
(『三国志』巻三十二、先主伝)

なお、劉備が蜀において劉璋を下して益州牧となったのはこの時期である。



劉備赤壁の後は魏武とほぼ交戦する事なく荊州益州と進出していっている。