万戸侯孫登

孫登字子高、權長子也。
魏黄初二年、以權為呉王、拝登東中郎將、封萬戸侯、登辭疾不受。
是歳、立登為太子、選置師傅、銓簡秀士、以為賓友、於是諸葛恪・張休・顧譚・陳表等以選入、侍講詩書、出從騎射。
(『三国志』巻五十九、孫登伝)


孫権曹丕によって呉王に封建された時、孫権の長子である孫登は東中郎将の官位と万戸侯を与えられたが辞退したのだそうだ。




嫡子は普通は当主の後継者になるので、別に侯を与えられることが無いのが一般的だろう。



孫登が嫡子だというなら、官位はともかく爵は孫権が皇太子にすれば済む事だ。





という事は、この時の孫登は、周囲からすると長子ではあっても嫡子だとは認識されていなかった、少なくとも後継が自明の事ではなかったという事か?



魏は後継者になるだろうと分かっていて、国を割るための企みでわざと万戸侯を与えようとした可能性もあるが。





孫登は同じ年に王太子になっているのは、孫登が後継者かどうか不明瞭だったために万戸侯に封建されそうになるなどの要らぬ混乱を招かないようにと決められたという事なのかも。