『三国志』武帝紀を読んでみよう:その46

その45(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/21/000100)の続き。





二十四年春正月、(曹)仁屠宛、斬(侯)音。
夏侯淵劉備戰於陽平、為備所殺。
三月、王自長安出斜谷、軍遮要以臨漢中、遂至陽平。備因險拒守。
夏五月、引軍還長安
秋七月、以夫人卞氏為王后。遣于禁曹仁擊關羽。
八月、漢水溢、灌禁軍、軍沒。羽獲禁、遂圍仁。使徐晃救之。
九月、相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。
冬十月、軍還洛陽。孫權遣使上書、以討關羽自效。王自洛陽南征羽、未至、晃攻羽、破之、羽走、仁圍解。王軍摩陂。
(『三国志』巻一、武帝紀)

劉備夏侯淵を討ち取って漢中を奪う。


(張)魯降、既説太祖拔漢中民數萬戸以實長安及三輔。其後與曹洪呉蘭於下辯、又與夏侯淵討宋建、別攻臨洮・狄道、平之。
是時、太祖徙民以充河北、隴西・天水・南安民相恐動、擾擾不安、既假三郡人為將吏者休課、使治屋宅、作水碓、民心遂安。
太祖將拔漢中守、恐劉備北取武都氐以逼關中、問(張)既。既曰「可勸使北出就穀以避賊、前至者厚其寵賞、則先者知利、後必慕之。」太祖從其策、乃自到漢中引出諸軍、令既之武都、徙氐五萬餘落出居扶風・天水界。
(『三国志』巻十五、張既伝)

太祖克張魯、(和)洽陳便宜以時拔軍徙民、可省置守之費。太祖未納、其後竟徙民棄漢中。
(『三国志』巻二十三、和洽伝)


この時期、既に漢中からは数万戸が長安近辺へ移住させられ、漢中の守りも減っていた。


それについては「棄漢中」とまで言われている。後から蜀攻めの拠点とするよりも、劉備が進出して三輔侵攻の足掛かりとされる事の方を嫌ったのだろうか。



そして棄てたという漢中に魏武は再度攻め込もうとするが、結局成果なく戻る。


もしかすると、もう体調がそれどころじゃなかったかもしれないし、荊州の方が一大事になっていたからかもしれない。



荊州では侯音こそ討てたが曹仁関羽に攻められ、援軍于禁も敗れるという波乱。


徐晃が更に援軍に加わり、しかも孫権関羽を攻める事で挟み撃ちの恰好になり、やっと形勢は逆転するのだった。




そして、魏王国内では相国畜生の部下であった魏諷なる人物が謀反、当然畜生も責任を取って罷免。むしろ罷免で済んだだけ優しい処置である。



魏諷の謀反はこれまでの魏武政権の参画者子弟なども多数関連していたらしく、これまた吉本の乱と同様に魏武の身内から反乱者が出てきた格好である。




大丈夫なの、この国?