その43(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/19/000100)の続き。
二十二年春正月、王軍居巢。
二月、進軍屯江西郝谿。(孫)權在濡須口築城拒守、遂逼攻之、權退走。
三月、王引軍還、留夏侯惇・曹仁・張遼等屯居巢。
夏四月、天子命王設天子旌旗、出入稱警蹕。
五月、作泮宮。
六月、以軍師華歆為御史大夫。
冬十月、天子命王冕十有二旒、乗金根車、駕六馬、設五時副車、以五官中郎將丕為魏太子。
劉備遣張飛・馬超・呉蘭等屯下辯、遣曹洪拒之。
(『三国志』巻一、武帝紀)
建安22年。この年も魏武は朝廷内における地位を高めた。「金根車」などは基本的に天子の乗り物の事である。つまり、魏武はほとんど皇帝と変わらない格式を備え始めたのである。
(建安)二十一年冬、曹公次于居巢、遂攻濡須。
二十二年春、(孫)權令都尉徐詳詣曹公請降、公報使脩好、誓重結婚。
(『三国志』巻四十七、呉主伝)
『三国志』呉主伝では、孫権はこの年に魏武に臣従を誓ったとされる。
なお、この徐詳なる人物は胡綜・是儀と共に孫権の秘書のような仕事をしていたらしい。つまり側近中の側近という所かもしれない。
是時、文帝為五官將、而臨菑侯植才名方盛、各有黨與、有奪宗之議。
文帝使人問(賈)詡自固之術、詡曰「願將軍恢崇徳度、躬素士之業、朝夕孜孜、不違子道。如此而已。」文帝從之、深自砥礪。
太祖又嘗屏除左右問詡、詡嘿然不對。太祖曰「與卿言而不答、何也?」詡曰「屬適有所思、故不即對耳。」太祖曰「何思?」詡曰「思袁本初・劉景升父子也。」太祖大笑、於是太子遂定。
(『三国志』巻十、賈詡伝)
その前段で、魏武は賈詡に誰を太子とするべきかを尋ね、賈詡は「袁紹・劉表を思い出してました」と答えたので、魏武は曹丕を太子に選んだ、という。
だが直接はどちらとも言っていないので、魏武がもし内心では強く曹植を太子に据えたがっていたら、魏武は「そうか、中子を後継ぎにしようと思っていたのに長子を残しておくのはいかんな」と勝手に読み取り、曹植を太子にして曹丕を「始末」する事にしたかもしれない。
魏武の本心がどちらであっても自分は魏武の望んだ発言をしたことに出来るという、人間心理の操作に長けた賈詡らしい策ではないか。
前の年あたりから始まってはいたが、いよいよ魏武と劉備の間の領土争いが本格化し始める。
劉備は追いまくられた長坂から約10年でここまで来た。