傅子曰、(蒯)越、蒯通之後也、深中足智、魁傑有雄姿。大將軍何進聞其名、辟為東曹掾。越勸進誅諸閹官、進猶豫不決。越知進必敗、求出為汝陽令、佐劉表平定境内、表得以彊大。
(『三国志』巻六、劉表伝注引『傅子』)
初平元年、長沙太守孫堅殺荊州刺史王叡、詔書以(劉)表為荊州刺史。時江南宗賊大盛、又袁術阻兵屯魯陽、表不能得至、乃單馬入宜城、請南郡人蒯越・襄陽人蔡瑁與共謀畫。
(『後漢書』列伝第六十四下、劉表伝)
南郡の人蒯越は当初大将軍何進の東曹掾だったが、自ら予州汝陽県令になって都を出たという(その後何進は宦官に殺され、都も大変な事になる)。
汝陽県は予州の筈なのだが、なぜ蒯越は荊州で働いているのだろうか?
実際には汝陽県に着任せず、職場放棄して郷里のある荊州へ戻っていたのだろうか?*1
*1:ちなみに実際に職場放棄して郷里に戻ったと記録されているのが荀彧である。蒯越も荀彧と同じような事をしたのかもしれない。