昨日の記事(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/05/09/000100)で引用した『傅子』によると、蒯越は「南郡の人」である。
一方、ちょっと前のこの記事(https://t-s.hatenablog.com/entry/20120207/1328543748)で引用した『晋陽秋』によれば、蒯良は「襄陽の人」である。
司馬彪戰略曰、劉表之初為荊州也、江南宗賊盛、袁術屯魯陽、盡有南陽之衆。呉人蘇代領長沙太守、貝羽為華容長、各阻兵作亂。表初到、單馬入宜城、而延中廬人蒯良・蒯越・襄陽人蔡瑁與謀。
(『三国志』巻六、劉表伝注引『戦略』)
蒯良・蒯越は共に「中廬の人」とされ、『続漢書』郡国志によると南郡に確かに「中盧」県がある。
という事はやはり蒯良・蒯越は共に「南郡中廬県の人」という事で、「襄陽の人」というのは誤りか。
後漢獻帝建安十三年、魏武盡得荊州之地、分南郡以北立襄陽郡、又分南陽西界立南郷郡、分枝江以西立臨江郡。
・・・(中略)・・・
襄陽郡、魏置。統縣八、戸二萬二千七百。
宜城、故鄢也。
中廬
臨沮、荊山在東北。
邔
襄陽侯相。
山都
鄧城
鄾
(『晋書』巻十五、地理志下、荊州)
いや、事はそう簡単でもないかもしれない。
蒯良・蒯越が生まれた頃や劉表が健在だった頃までは「中廬(中盧)」は南郡の県だが、劉表死後に荊州が曹操に降伏した後で南郡を分割して襄陽郡が生まれており、どうやら「中廬」はそこで襄陽郡の方に所属していたようなのだ。
つまり、蒯良・蒯越が生まれた頃、あるいは劉表が健在だった頃の表記に従えば蒯良・蒯越の出身は「南郡中廬県」になり、荊州降伏後の表記に従えば蒯良・蒯越の出身は「襄陽郡中廬県」になるという事なのだろう。
「襄陽の人」というのは間違いというわけではない事になるか。