さて突然だが、三国時代最強の復讐鬼といえば誰だろう?
単なる前フリなのですぐ答えさせてもらうが、答えは訒艾だと思う。
それはどういうことか。
以下、長くなるが彼の人生を追ってみることにする。
訒艾字士載、義陽棘陽人也。
少孤、太祖破荊州、徙汝南、為農民養犢。年十二、隨母至潁川、讀故太丘長陳寔碑文、言「文為世範、行為士則」、艾遂自名範、字士則。後宗族有與同者、故改焉。
(『三国志』巻二十八、訒艾伝)
義陽郡、すなわち元の南陽郡で生まれ育った彼は、まだ幼いころに父を亡くし、更に曹操が荊州を破ると汝南郡に移住して農民となった。
「太祖破荊州」とは要するに劉表が死に劉蒴が降伏、劉備が多数の避難民と共に逃げたことを指すのだろう。
屯田民というのは基本的に土地を失った流民の類が編入されるものであるから、訒艾はおそらく曹操による荊州討伐で流民化したのだ。
劉備についていった民の中にいたのかもしれない。
だとすれば、「先主棄妻子、與諸葛亮・張飛・趙雲等數十騎走、曹公大獲其人衆輜重。」(『三国志』巻三十二、先主伝)と、自分たち民を守れずに逃げ出した劉備のことを訒艾はどう思っただろうか。
そして、元をたどれば流民になったのは曹操の侵攻のせいであるから、それを引き起こした曹操のことをどう思っただろうか。
訒艾は字のエピソードなどを見るに本来それなりに勉強のできるだけの経済水準と思われ、曹操の侵攻がなければ、劉備が守ってくれれば、屯田民になどならずに済んだのであろう。
まだ子どもと言うべき彼の心に、三国志きっての二大英雄の名は転落の原因、憎悪の対象として刻まれたのではないだろうか。
だが一介の少年屯田民がどれだけ恨みを持っても曹操や劉備に復讐することなど出来はしない。
少年時代の彼は持って生まれた能力と心に秘めた復讐心を表に出すこともできず、どもりがちな屯田の小役人として生きるしかなかった。
だが、やがて転機が訪れるのであった。
以下次回へ続く。