『三国志』武帝紀を読んでみよう:その22

その21(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/25/000100)の続き。





八月、(袁)紹連營稍前、依沙塠為屯、東西數十里。公亦分營與相當、合戰不利。時公兵不満萬、傷者十二三。
紹復進臨官渡、起土山地道。公亦於内作之、以相應。紹射營中、矢如雨下、行者皆蒙楯、衆大懼。
時公糧少、與荀彧書、議欲還許。彧以為「紹悉衆聚官渡、欲與公決勝敗。公以至弱當至彊、若不能制、必為所乗、是天下之大機也。且紹、布衣之雄耳、能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順、何向而不濟!」公從之。
孫策聞公與紹相持、乃謀襲許、未發、為刺客所殺。
汝南降賊劉辟等叛應紹、略許下。紹使劉備助辟、公使曹仁撃破之。備走、遂破辟屯。
(『三国志』巻一、武帝紀)

袁紹と魏武、官渡で対峙。兵の数で劣る魏武は荀彧に後退を相談したが、荀彧は「ここで頑張らないと終わり!でもピンチはチャンス!袁紹は大したことないし貴方なら出来る!」といった感じの具体性は無い応援コメントで奮起を促す。



魏武の劣勢を見て許を攻めようとした孫策は暗殺され、魏武は難を逃れた。袁術と縁を切って魏武サイドとなっていたように思われた孫策はまた陣営を移ろうとしていたわけだ。流石は反董卓の陣営の筈なのに真っ先に反董卓の太守を殺した父を持つだけの事はある。



汝南・潁川黄巾何儀・劉辟・黄邵・何曼等、衆各數萬、初應袁術、又附孫堅
二月、太祖進軍討破之、斬辟・邵等、儀及其衆皆降。
(『三国志』巻一、武帝紀)

汝南では黄巾の残党劉辟らが蜂起、許県の近隣まで出没したらしい。



あれ?建安元年にも汝南方面で黄巾残党劉辟が出没して魏武に斬られたと書かれているのだが・・・?



同姓同名別人の黄巾の首魁がいたのか、それとも襲名制だったのか、あるいは元年の記事は誤りだったのか。




劉備は予州牧なので、予州である許県方面に出るのは理にかなっている。すぐに逃げているように見えるが、討たれたり囚われたりしない限り、予州への圧力はずっとかけ続けられるという事だから、討たれない事が大事である。

曹公與袁紹相拒於官渡、汝南黄巾劉辟等叛曹公應紹。紹遣先主將兵與辟等略許下。關羽亡歸先主。曹公遣曹仁將兵撃先主、先主還紹軍、陰欲離紹、乃説紹南連荊州劉表。紹遣先主將本兵復至汝南、與賊龔都等合、衆數千人。曹公遣蔡陽撃之、為先主所殺。
(『三国志』巻三十二、先主伝)


どうやら実際には曹仁に敗れた後でいったん袁紹の元へ行き、そこで荊州劉表との連携を説いて再度汝南へ派遣された、という話らしい。

劉備袁紹から離れたがったというが、実際にそのつもりがあってもなくても、予州牧で徐州にも顔が利く劉備は別動隊として動いた方が適材適所であろう。