『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その9

その8(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/12/000100)の続き。





三年春正月丁丑、大赦天下。
袁術遣將孫堅劉表於襄陽、堅戰歿。
袁紹公孫瓚戰于界橋、瓚軍大敗。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

初平3年(3月まで)。


初平三年、(袁)術使(孫)堅征荊州、撃劉表。表遣黄祖逆於樊・鄧之間。堅撃破之、追渡漢水、遂圍襄陽、單馬行峴山為祖軍士所射殺。
兄子賁、帥將士衆就術、術復表賁為豫州刺史。
(『三国志』巻四十六、孫堅伝)

袁術與其從兄紹有隙、而紹與(劉)表相結、故術共孫堅合從襲表。表敗、堅遂圍襄陽。會表將黄祖救至、堅為流箭所中死、餘衆退走。
(『後漢書』列伝第六十四下、劉表伝)

孫堅、また荊州刺史と戦うが、今度は敗れて死んだ。


孫堅を倒したのは劉表。王叡の後任として董卓サイドに任命されたようだが、袁紹と結び袁術とは敵対するという事実上の独立勢力である。



荊州刺史の部下や南陽郡にとっては孫堅は旧主の仇かもしれない。士気が高かったのではなかろうか。




北の方では袁紹公孫瓚が争い、袁紹が勝った。袁紹は既に冀州牧の地位を韓馥から奪っている。


冀州に元々地盤があったわけでもなかった袁紹だが、こうして冀州の実質的な支配権を握っていったのである。