『三国志』武帝紀を読んでみよう:その14

その13(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/16/000100)の続き。





天子之東也、(楊)奉自梁欲要之、不及。
冬十月、公征奉、奉南奔袁術、遂攻其梁屯、拔之。於是以袁紹為太尉、紹恥班在公下、不肯受。公乃固辭、以大將軍讓紹。天子拝公司空、行車騎將軍。
是歳用棗祗・韓浩等議、始興屯田
呂布劉備、取下邳。備來奔。
程昱説公曰「觀劉備有雄才而甚得衆心、終不為人下、不如早圖之。」公曰「方今收英雄時也、殺一人而失天下之心、不可。」
張濟自關中走南陽。濟死、從子繡領其衆。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武は献帝を奪われた楊奉を蹴散らしたが、何故か官位では遠くにいる袁紹に遠慮して司空・行車騎将軍で我慢する。



そしてあの魏武の屯田が開始される。

是時歳飢旱、軍食不足、羽林監潁川棗祗建置屯田、太祖以(任)峻為典農中郎將、募百姓屯田於許下、得穀百萬斛、郡國列置田官、數年中所在積粟、倉廩皆満。
(『三国志』巻十六、任峻伝)


直前に破っていた潁川の黄巾の物資と降伏者が最初の元手と労働力だったのだろうか。



すぐに結果が出たわけではなかっただろうが、このお陰でそれまでのような「食うために略奪」みたいなイナゴか山賊みたいな軍事行動の連続が変わっていくのかもしれない。もしかしたら。



そして魏武に敗れて劉備の元へ行っていた呂布劉備を追い出し、今度は劉備が魏武(と献帝)の元へ逃げ込む。