『三国志』武帝紀を読んでみよう:その21

その20(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/24/000100)の続き。





二月、(袁)紹遣郭圖・淳于瓊・顔良攻東郡太守劉延于白馬、紹引兵至黎陽、將渡河。
夏四月、公北救延。荀攸説公曰「今兵少不敵、分其勢乃可。公到延津、若將渡兵向其後者、紹必西應之、然後輕兵襲白馬、掩其不備、顔良可禽也。」公從之。紹聞兵渡、即分兵西應之。公乃引軍兼行趣白馬、未至十餘里、良大驚、來逆戰。使張遼・關羽前登、撃破、斬良。遂解白馬圍、徙其民、循河而西。
紹於是渡河追公軍、至延津南。公勒兵駐營南阪下、使登壘望之、曰「可五六百騎。」有頃、復白「騎稍多、歩兵不可勝數。」公曰「勿復白。」乃令騎解鞍放馬。是時、白馬輜重就道。諸將以為敵騎多、不如還保營。荀攸曰「此所以餌敵、如何去之!」紹騎將文醜劉備將五六千騎前後至。諸將復白「可上馬。」公曰「未也。」有頃、騎至稍多、或分趣輜重。公曰「可矣。」乃皆上馬。時騎不滿六百、遂縱兵撃、大破之、斬醜。
良・醜皆紹名將也、再戰、悉禽、紹軍大震。
公還軍官渡。紹進保陽武。關羽亡歸劉備
(『三国志』巻一、武帝紀)

袁紹の先遣隊は兗州の白馬県を攻め、袁紹も黎陽に入る。



これはつまり黄河北岸は袁紹に再占領され、逆に黄河南岸側へ攻め込まれたという事だ。



魏武は顔良文醜を倒しているが、戦線はどんどん後退している。延津・陽武と段々と許県に近づいて行っていると言っていいだろう。



これが劉備を優先して袁紹に時間を与えた結果なのだと思う。



それにしても、サラッと5千以上の騎兵部隊の中に混じる劉備というのは興味深い。劉備は騎兵部隊の指揮が出来るという認識だったのか?



袁紹在黎陽、將南渡。時(程)昱有七百兵守鄄城、太祖聞之、使人告昱、欲益二千兵。昱不肯曰「袁紹擁十萬衆、自以所向無前。今見昱兵少、必輕易不來攻。若益昱兵、過則不可不攻、攻之必克、徒両損其勢。願公無疑!」太祖從之。紹聞昱兵少、果不往。太祖謂賈詡曰「程昱之膽、過于賁・育。」
(『三国志』巻十四、程昱伝)


それにしても魏武がピンチなのに本拠と言っていいはずの兗州は何をしていたんだ、と思うかもしれないが、この時期は程昱が「700の兵しかいなければ侮って襲ってこない」と言っていたような状態。これは、兗州独自では兵を揃えられない状態にあったとも見る事が出来るだろう。あるいは、兵は残らず魏武が連れて行っていたか。

どちらにしろ、魏武も程昱も「兗州で守る事は放棄」という方針だったようだ。



まあ、兗州呂布に与してからそれほど経っていない(つまり信用できないし士気も低い)し、おそらく地勢的にも守るのに適していないしと、魏武としてはメリットがなかったのだろう。