『三国志』武帝紀を読んでみよう:その23

その22(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/26/000100)の続き。





袁紹運穀車數千乗至、公用荀攸計、遣徐晃・史渙邀撃、大破之、盡燒其車。
公與紹相拒連月、雖比戰斬將、然衆少糧盡、士卒疲乏。公謂運者曰「卻十五日為汝破紹、不復勞汝矣。」
冬十月、紹遣車運穀、使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之、宿紹營北四十里。紹謀臣許攸貪財、紹不能足、來奔、因説公撃瓊等。左右疑之、荀攸賈詡勸公。公乃留曹洪守、自將歩騎五千人夜往、會明至。瓊等望見公兵少、出陳門外。公急撃之、瓊退保營、遂攻之。紹遣騎救瓊。左右或言「賊騎稍近、請分兵拒之。」公怒曰「賊在背後、乃白!」士卒皆殊死戰、大破瓊等、皆斬之。紹初聞公之擊瓊、謂長子譚曰「就彼攻瓊等、吾攻拔其營、彼固無所歸矣!」乃使張郃・高覽攻曹洪。郃等聞瓊破、遂來降。紹衆大潰、紹及譚棄軍走、渡河。追之不及、盡收其輜重圖書珍寶、虜其衆。公收紹書中、得許下及軍中人書、皆焚之。冀州諸郡多舉城邑降者。
初、桓帝時有黄星見于楚・宋之分、遼東殷馗善天文、言後五十歳當有真人起于梁・沛之間、其鋒不可當。至是凡五十年、而公破紹、天下莫敵矣。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、逆転。



しかし、兵は少なく、袁紹の兵糧を焼き、屯田制は多大な成果を上げていたはずなのに、それでも兵糧不足に苦しむのは魏武の軍の方(袁紹も苦しんでいたかもしれないが)。


どうもこのあたりの魏武の軍の描写は矛盾を感じて仕方ない。大体、兵が少ないというが青州兵はどこ行ったんだろう?


太祖與袁紹相拒於官渡、紹遣將淳于瓊等督運屯烏巢、太祖自將急撃之。(張)郃説紹曰「曹公兵精、往必破瓊等。瓊等破則將軍事去矣、宜急引兵救之。」郭圖曰「郃計非也。不如攻其本營、勢必還、此為不救而自解也。」郃曰「曹公營固、攻之必不拔、若瓊等見禽、吾屬盡為虜矣。」紹但遣輕騎救瓊、而以重兵攻太祖營、不能下。太祖果破瓊等、紹軍潰。圖慚、又更譖郃曰「郃快軍敗、出言不遜。」郃懼、乃歸太祖。
(『三国志』巻十七、張郃伝)


張郃はこの時に淳于瓊の救援を進言したが、軽騎兵による救援のみで、他は魏武本陣攻めに回ったために淳于瓊敗北、袁紹軍潰走となったのだ、という。まあ、救援のために早く駆けつけられそうな軽騎兵を派遣するのは理に叶っているような気もするが、もっと多数を淳于瓊の方へ送って魏武自身を潰していれば、という事だろうか。



ちなみにいわゆる西園八校尉の一人として淳于瓊の名が袁紹・魏武と共に出てくる。かつては同僚だったということか。




敗れた袁紹は長男袁譚と共に逃走。袁譚青州刺史である。