『三国志』武帝紀を読んでみよう:その13

その12(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/14/000100)の続き。






建安元年春正月、太祖軍臨武平、袁術所置陳相袁嗣降。
太祖將迎天子、諸將或疑、荀彧・程昱勸之、乃遣曹洪將兵西迎、衛將軍董承與袁術將萇奴拒險、洪不得進。
汝南・潁川黄巾何儀・劉辟・黃邵・何曼等、衆各數萬、初應袁術、又附孫堅
二月、太祖進軍討破之、斬辟・邵等、儀及其衆皆降。天子拜太祖建徳將軍。
夏六月、遷鎮東將軍、封費亭侯。
秋七月、楊奉・韓暹以天子還洛陽、奉別屯梁。太祖遂至洛陽、衛京都、暹遁走。天子假太祖節鉞、録尚書事。洛陽殘破、董昭等勸太祖都許。
九月、車駕出轘轅而東、以太祖為大將軍、封武平侯。自天子西遷、朝廷日亂、至是宗廟社稷制度始立。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、陳国へ進出し、更に汝南・潁川黄巾の残党を討つ。汝南・潁川は黄巾の乱勃発当初から黄巾の勢力が強かった地域である。



そして、魏武は献帝を迎え入れようと試みる。というか、献帝の側にいたはずの董承は当初は魏武の兵の接触を拒んでおり、この時点での魏武は献帝側からは献帝を奪い取って我が物にしようとしている可能性があると見られていたように思える。


まあ、結果からするとその通りなのだが。



魏武が洛陽の献帝の元へ行くと、それまで曲りなりにも献帝を護持してきた韓暹が遁走。



この辺の事は以前にも『後漢書』孝献帝紀の方で書いている。洛陽に着く頃までの献帝政権で発言力が強かったように思われる張楊と韓暹がまず排除され、更に軍事的には優勢であったらしい楊奉が騙され、魏武による連行と流れていく。



もっとも、献帝らが洛陽にいれば献帝にとって全て好転したとも限らない。直前の悲惨な状況からすれば、洛陽から移る事自体は妥当な判断かもしれない。


献帝尚書や侍中を殺したとか、楊奉を騙すとか、献帝やその近臣サイドからすれば董卓の再来のような動きにも見えない事はないが。




なんにせよ、魏武がこの数か月の中だけでどんどん将軍位が上がっていく(建徳将軍→鎮東将軍→大将軍)事だけを見ても、この数か月に魏武にとってドでかい事が起こった事が分かろうというものだ。