『三国志』武帝紀を読んでみよう:その24

その23(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/28/000100)の続き。





六年夏四月、揚兵河上、撃(袁)紹倉亭軍、破之。紹歸、復收散卒、攻定諸叛郡縣。
九月、公還許。紹之未破也、使劉備略汝南、汝南賊共都等應之。遣蔡揚撃都、不利、為都所破。公南征備。備聞公自行、走奔劉表、都等皆散。
七年春正月、公軍譙、令曰「吾起義兵、為天下除暴亂。舊土人民、死喪略盡、國中終日行、不見所識、使吾悽愴傷懷。其舉義兵已來、將士絶無後者、求其親戚以後之、授土田、官給耕牛、置學師以教之。為存者立廟、使祀其先人、魂而有靈、吾百年之後何恨哉!」遂至浚儀、治睢陽渠、遣使以太牢祀橋玄。進軍官渡。
紹自軍破後、發病歐血、夏五月死。小子尚代、譚自號車騎將軍、屯黎陽。
秋九月、公征之、連戰。譚・尚數敗退、固守。
(『三国志』巻一、武帝紀)

袁紹、死亡。劉備荊州劉表の元へ逃げる。といってもいつでも予州を窺える場所に隠れたという事であるから、魏武にとっては潜在的な脅威ではあり続けている。


また、魏武が自ら行くとすぐ逃げるが、配下の将を派遣した時は割と打ち破っているので、これはこれで地味に厄介である。劉備を食い止めたり追い払ったりするためには魏武自身が出ていく必要があるという事なのだから、最大の敵袁紹が北、劉備が南と別れた状態では攻め方が難しくなる。



袁紹が死ぬと、その子袁譚袁尚によって勢力が二分。官渡の時に一緒に逃げた長子袁譚が最有力候補と思いきや、若い袁尚が後継と発表されたのである。納得しない者も結構多かったのではなかろうか。


自軍敗後發病、七年夏、薨。
未及定嗣、逢紀・審配宿以驕侈為(袁)譚所病、辛評・郭圖皆比於譚而與配・紀有隙。衆以譚長欲立之。配等恐譚立而評等為害、遂矯紹遺命、奉(袁)尚為嗣。
(『後漢書』列伝第六十四上、袁紹伝上)


後漢書袁紹伝では袁尚の後継発表は審配らによる遺言捏造によるもので、多くの者が袁譚の後継を望んでいた、と記す。真偽は定かではないが、官渡戦での功績を思えば袁譚有利と考えられていても不思議ではないだろう。

これについては、子供を勢力全体の後継者にするつもりだったなら先に明言しておくべきだったと思うが、明言したらしたで粛清やら内乱やらが起こると袁紹は思っていたのかもしれない。