『晋書』武帝紀を読んでみよう:その48

その47(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/11/22/000100)の続き。





帝宇量弘厚、造次必於仁恕。容納讜正、未嘗失色於人。明達善謀、能斷大事、故得撫寧萬國、綏靜四方。承魏氏奢侈刻弊之後、百姓思古之遺風、乃厲以恭儉、敦以寡慾。有司嘗奏御牛青絲紖斷、詔以青麻代之。臨朝寬裕、法度有恆。高陽許允既為文帝所殺、允子奇為太常丞。帝將有事於太廟、朝議以奇受害之門、不欲接近左右、請出為長史。帝乃追述允夙望、稱奇之才、擢為祠部郎、時論稱其夷曠。
平呉之後、天下乂安、遂怠於政術、耽於遊宴、寵愛后黨、親貴當權、舊臣不得專任、彝章紊廢、請謁行矣。爰至末年、知惠帝弗克負荷、然恃皇孫聰睿、故無廢立之心。復慮非賈后所生、終致危敗、遂與腹心共圖後事。説者紛然、久而不定、竟用王佑之謀、遣太子母弟秦王柬都督關中、楚王瑋・淮南王允並鎮守要害、以強帝室。又恐楊氏之偪、復以佑為北軍中候、以典禁兵。既而寢疾彌留、至於大漸、佐命元勳、皆已先沒、羣臣惶惑、計無所從。會帝小差、有詔以汝南王亮輔政、又欲令朝士之有名望年少者數人佐之、楊駿祕而不宣。帝復尋至迷亂、楊后輒為詔以駿輔政、促亮進發。帝尋小間、問汝南王來未、意欲見之、有所付託。左右答言未至、帝遂困篤。中朝之亂、實始於斯矣。
(『晋書』巻三、武帝紀)

司馬炎は度量のある仁君であり、魏の奢侈や苛政を反省した政治を行っていたが、呉を滅ぼしてからは政治を怠けるようになったのだという、良くも悪くもわかりやすい総括が語られる。



末年の顛末について、司馬炎の皇太子(恵帝)の子の司馬遹は司馬炎のお気に入りで、司馬懿に似ていると思っていたという。

嘗對羣臣稱太子似宣帝、於是令譽流於天下。
時望氣者言廣陵有天子氣、故封為廣陵王、邑五萬戸。
(『晋書』巻五十三、愍懐太子遹伝)


「天子が出る機運がある」という広陵にわざわざ封建するあたり、司馬炎は相当期待していたのだろう。太子に期待できない分だけ余計に期待が高まったのかもしれない。



ここに出てくる王佑は太原の王済の従兄弟。つまり祖父は王昶という事になるか。王済とは不仲だったそうだ。


及帝疾篤、未有顧命、佐命功臣、皆已沒矣、朝臣惶惑、計無所從。而(楊)駿盡斥羣公、親侍左右、因輒改易公卿、樹其心腹。會帝小間、見所用者非、乃正色謂駿曰「何得便爾!」乃詔中書、以汝南王亮與駿夾輔王室。駿恐失權寵、從中書借詔觀之、得便藏匿。中書監華廙恐懼、自往索之、終不肯與。信宿之間、上疾遂篤、后乃奏帝以駿輔政、帝頷之。
(『晋書』巻四十、楊駿伝)


皇后の父楊駿は司馬炎が病床にある間に大臣や皇室の重鎮を排斥したが、司馬炎の病状が良くなると司馬炎は怒って汝南王司馬亮を自分の後を託す人物として呼び戻そうとした。しかし楊駿はその詔を隠してしまい、司馬炎は司馬亮に後を託せないままに死んでいったという。




なんか魏でも事実上の末期にこういうのあった。晋はこれだけで崩壊したわけではなかろうが、その一因に挙げられるのも理解できるというものだ。