その38(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180929/1538147375)の続き。
漢欲西歸、張良・陳平説曰「漢有天下太半、而諸侯皆附之。楚兵罷食盡、此天亡楚之時也、不如因其機而遂取之。今釋弗撃、此所謂『養虎自遺患』也。」漢王聽之。
漢五年、漢王乃追項王至陽夏南、止軍、與淮陰侯韓信・建成侯彭越期會而撃楚軍。至固陵、而信・越之兵不會。楚撃漢軍、大破之。漢王復入壁、深塹而自守。
(『史記』巻七、項羽本紀)
これは張良・陳平が主張したものだという。実際には、漢サイドとしては講和する事自体が人質返還や項羽の油断を誘うための、盟約破りを前提としたものだったかもしれない。
結局、劉邦はまんまと東方への進出に成功。そこで韓信・彭越も呼んだ上で項羽を討とうとしたが、その韓信・彭越が来ないために単独で項羽と当たって負けた、という感じ。
ここだけで見ると裏切っておいて負けるという劉邦の情けなさしか感じないが、主戦場がより東に移った事で、劉邦は韓信・彭越や楚方面にまで行っている劉賈らの別動隊などとの連携が取りやすくなったと言えるのではないか。
項羽は本拠にこそ近づいたかもしれないが、四方全部から攻撃を受ける戦場に誘い込まれた、という見方も出来そうだ。
つまるところ、約束を破った劉邦を一度退けたとはいえ、項羽が劣勢である事に変わりは無く、むしろより危険な状態に追い込まれたと言う事なのだと思う。