『史記』項羽本紀を読んでみよう:その40

その39(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180930/1538233697)の続き。





謂張子房曰「諸侯不從約、為之奈何?」對曰「楚兵且破、(韓)信・(彭)越未有分地、其不至固宜。君王能與共分天下、今可立致也。即不能、事未可知也。君王能自陳以東傅海、盡與韓信、睢陽以北至穀城、以與彭越、使各自為戰、則楚易敗也。」漢王曰「善。」於是乃發使者告韓信・彭越曰「并力撃楚。楚破、自陳以東傅海與齊王、睢陽以北至穀城與彭相國。」使者至、韓信・彭越皆報曰「請今進兵。」韓信乃從齊往、劉賈軍從壽春並行、屠城父、至垓下。
大司馬周殷叛楚、以舒屠六、舉九江兵、隨劉賈・彭越皆會垓下、詣項王。
(『史記』巻七、項羽本紀)

劉邦韓信と彭越に領土を約束して協力を取り付ける。



韓信は既に斉王であるが(そして劉邦韓信が仮王を勝手に名乗った事を快く思っていないが)、今回の条件は領地の面でより好条件という事だ。同じく、これまで王になっていなかった彭越も同様に王にする、という。



領域については、書かれている通りだとすると項羽の領地だったあたりを全部韓信と彭越に与える事になり、本来劉邦の領土ではないとはいえ相当な大盤振る舞いである。




まあ、劉邦からすれば本来自分の領土ではないのだから、この両名に全部与えても損ではない、と考える事は出来るのだろう。




一方、淮南方面では大司馬周殷が項羽に反乱。英布が逃げてから項羽支配下であったと思われる九江は、改めて劉邦の勢力圏に塗り替わるのだった。



項羽の前の大司馬が重用していた曹咎であった事を考えると、この周殷も項羽の勢力の中では重要なポジションじゃないかと思うのだが、それでも離反したというのは項羽からすると色々なダメージがあったのではなかろうか。





そして、これは項羽の「逃げ場」が減った事も意味するのだと思う。



項羽の西楚の都となっていた彭城は斉王韓信や彭越から攻められやすいし、そもそも西楚の領内は彭越が跋扈していて安定していない。



かといって淮南の方も、今回の事で項羽が安心していられる地域ではなくなっている。先に逃げ道に駒を打たれたかのような状態。



劉邦項羽の戦いは、実は既に最終局面、3手詰めみたいな盤面なのである。