『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その12

その11の続き。


於是莽為惶恐、不得已而起受策。
策曰「漢危無嗣、而公定之。四輔之職、三公之任、而公幹之。羣僚衆位、而公宰之。功徳茂著、宗廟以安、蓋白雉之瑞、周成象焉。故賜嘉號曰安漢公、輔翼于帝、期於致平、毋違朕意。」
莽受太傅安漢公號、讓還益封疇爵邑事、云願須百姓家給、然後加賞。
羣公復爭、太后詔曰「公自期百姓家給、是以聽之。其令公奉・舍人・賞賜皆倍故。百姓家給人足、大司徒・大司空以聞。」
莽復讓不受。而建言宜立諸侯王後及高祖以來功臣子孫、大者封侯、或賜爵關内侯食邑、然後及諸在位、各有第序。上尊宗廟、筯加禮樂、下惠士民鰥寡、恩澤之政無所不施。語在平紀。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

そこで王莽は恐れおののき、やむを得ず復帰して任命の策書を受け取った。



任命の策書はこう言っていた。「漢は後継ぎがいない危機であったが公(王莽)がそれを安定させた。四輔の職・三公の務めは公が主幹している。多くの官僚たちは公が主宰している。功績と人徳が顕著であり、漢の宗廟は守られた。おそらく白い雉が献上されるという瑞祥は、周の成王の時と
同じものだろう。ゆえに「安漢公」という美号を下賜する。皇帝を助け、太平の世をもたらすよう約束し、朕の期待に違わぬようにせよ」



王莽は太傅・安漢公の号を受けたが、加増と相続特権のことは返上し、人々の家がみな満ち足りるのを待ってから賞を受け取ると申し出た。



大臣たちがそのことについて争って意見したため、元后は「公(王莽)は自ら人々の家がみな満ち足りるのを待つと言うので、それを許す。公の俸給・使用人・恩賞は通常の二倍にするように命じる。大司徒・大司空は人々の家がみな満ち足りたら報告せよ」



王莽はまた受け取らず、諸侯王の子孫や高祖以来の功臣たちの子孫を列侯や関内侯に封じ、順位付けすることを進言した。上は宗廟を尊重して礼や音楽を増やし、下はやもめや寡婦に施し、恩沢がいきわたらないところはなかった。そのあたりは『漢書』平帝紀を参照せよ。



王莽、ついに「安漢公」を受け取るの巻。


そこでもまた特典の一部を返上して得点稼ぎを忘れない。




羣臣奏言大司馬莽功徳比周公、賜號安漢公、及太師孔光等皆益封。語在莽傳。
賜天下民爵一級、吏在位二百石以上、一切滿秩如真。
立故東平王雲太子開明為王、故桃郷頃侯子成都為中山王。
封宣帝耳孫信等三十六人皆為列侯。
太僕王綠等二十五人前議定陶傅太后尊號、守經法、不阿指從邪、右將軍孫建爪牙大臣、大鴻臚咸前正議不阿、後奉節使迎中山王、及宗正劉不惡・執金吾任岑・中郎將孔永・尚書令烑恂・沛郡太守石詡、皆以前與建策、東迎即位、奉事周密勤勞、賜爵關内侯、食邑各有差。
賜帝徴即位前所過縣邑吏二千石以下至佐史爵、各有差。
又令諸侯王・公・列侯・關内侯亡子而有孫若子同産子者、皆得以為嗣。
公・列侯嗣子有罪、耐以上先請。
宗室屬未盡而以罪絶者、復其屬。
其為吏舉廉佐史、補四百石。
天下吏比二千石以上年老致仕者、參分故祿、以一與之、終其身。
遣諫大夫行三輔、舉籍吏民、以元壽二年倉卒時膻賦斂者、償其直。
義陵民冢不妨殿中者勿發。
天下吏民亡得置什器儲偫。
(『漢書』巻十二、平帝紀、元始元年)

この時に王莽によって提案され実行に移された政策は以下の通り。



諸侯王や列侯の復活、大臣たちの論功行賞といったものもあれば、諸侯王や列侯に対し「養子」を認めるものや、徭役免除や不逮捕特権を持つ宗室(皇室)の地位を復活させるとか、二千石以上の高官の引退後について年金を支給するといったものもある。



自分の恩賞を限定する一方で周囲や一般の者へは大盤振る舞いすることで、巧みに人心を集めていったのだろう。