匈奴育ちの列侯たち

漢書』景武昭宣元成功臣表によれば、神爵3年に帰徳侯先賢撣が、五鳳2年に信成侯王定が、五鳳3年に義陽侯厲温敦が、いずれも匈奴からの降伏者として列侯に封建されている。



呼韓邪單于左大將烏厲屈與父呼遬累烏厲温敦皆見匈奴亂、率其衆數萬人南降漢。封烏厲屈為新城侯、烏厲温敦為義陽侯。
(『漢書』巻九十四下、匈奴伝下)

漢書匈奴伝下によれば新成(新城)侯は呼韓邪単于の左大将だった烏厲屈、義陽侯は烏厲屈の父で呼遬累(匈奴の官名とされる)烏厲温敦だという。



つまりこの2人は親子だ。



そして、新成侯は元は烏厲屈という匈奴の名を持っていたようだが、『漢書』景武昭宣元成功臣表によれば「王定」というかなり中華っぽさのある呼ばれ方をしている。



更に、子の方の新成侯は「王定」になっているのに、義陽侯は『漢書』景武昭宣元成功臣表でも「厲温敦」と匈奴感あふれる名前で呼ばれ続けている。



(五鳳)三年二月甲子封、四年、坐子伊細王謀反、削爵為關内侯、食邑千戸。
(『漢書』巻十七、景武昭宣元成功臣表、義陽侯厲温敦)


もしかすると、これは義陽侯厲温敦は本人の代のうちに列侯を剥奪されていて、新成侯王定は後継ぎがいないために断絶はしているが罪は無く、その後(王莽の時に)再興もしている、という違いによるものかもしれない。



言い換えると、列侯になる直後は匈奴名のままだったが、その後に中華風の姓名を名乗るようになる契機があったのではないか、という事だ。




新成侯が王氏を名乗っていると考えると、そういう事をしそうなのは王莽じゃないか、などと想像を逞しくしたくなる。根拠は無いが。