『漢書』元帝紀を読んでみよう:その11

その10(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180318/1521299343)の続き。




建昭元年春三月、上幸雍、祠五畤。
秋八月、有白蛾羣飛蔽日、從東都門至枳道。
冬、河間王元有罪、廢遷房陵。
罷孝文太后・孝昭太后寢園。
二年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。
三月、行幸河東、祠后土。
三河・大郡太守秩。戸十二萬為大郡。
夏四月、赦天下。
六月、立皇子輿為信都王。
閏月丁酉、太皇太后上官氏崩。
冬十一月、齊・楚地震、大雨雪、樹折屋壞。
淮陽王舅張博・魏郡太守京房坐窺道諸侯王以邪意、漏泄省中語、博要斬、房棄市。
(『漢書』巻九、元帝紀)


建昭元年、2年。



当時、郡には「大郡」という区分があった。つまり、ここでの決定は人口の多い郡はそれだけ仕事が大変なので給料を増やしてやろう、格上げしてやろう、という事だ。





上官太皇太后、死す。昭帝の皇后だった上官氏の事である。父の実家(上官氏)も母の実家(霍氏)も反乱者として断罪されてどちらも全滅しているが、彼女だけは太皇太后として生きていた。




昌邑王もカウントすると3代も前の皇后であると思うと物凄い長寿に思えるが、昭帝の皇后だった頃はまだ10代前半。死亡時でも52歳である(宣帝より年下)。





易経』の大家として、また予言能力者として有名な京房、死す。

永光・建昭間、西羌反、日蝕、又久青亡光、陰霧不精。
(京)房數上疏、先言其將然、近數月、遠一歳、所言屢中、天子説之。
數召見問、房對曰「古帝王以功舉賢、則萬化成、瑞應著、末世以毀譽取人、故功業廢而致災異。宜令百官各試其功、災異可息。」詔使房作其事、房奏考功課吏法。上令公卿朝臣與房會議温室、皆以房言煩碎、令上下相司、不可許、上意郷之。
時部刺史奏事京師、上召見諸刺史、令房曉以課事、刺史復以為不可行。
御史大夫鄭弘・光祿大夫周堪初言不可、後善之。
(『漢書』巻七十五、京房伝)


また京房は実現しなかったが官吏の「考課法」、つまり成績の評定の方法について改革案を述べた人物でもあった。官僚、大臣たちの評判は良くなかったが、元帝は積極的であったらしい。


あまり政治に熱心でなかったと言われる元帝だが、こういった事に興味や熱意がまるでなかったというわけでもなかったようだ。



しかし京房の『易経』学におけるライバル五鹿充宗があの宦官石顕の一党だったために京房は当時の朝廷での居場所を失い、太守に任命してその評定法を試すという名目で地方に出され、更に本紀にあるように淮陽王の外戚張氏の事件に関与した罪で処刑されたのであった。