『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その48

その47の続き。


是歳廣饒侯劉京・車騎將軍千人扈雲・大保屬臧鴻奏符命。京言齊郡新井、雲言巴郡石牛、鴻言扶風雍石、莽皆迎受。
十一月甲子、莽上奏太后曰「陛下至聖、遭家不造、遇漢十二世三七之阸、承天威命、詔臣莽居攝、受孺子之託、任天下之寄。臣莽兢兢業業、懼於不稱。宗室廣饒侯劉京上書言『七月中、齊郡臨淄縣昌興亭長辛當一暮數夢、曰「吾、天公使也。天公使我告亭長曰『攝皇帝當為真。』即不信我、此亭中當有新井。」亭長晨起視亭中、誠有新井、入地且百尺。』十一月壬子、直建冬至、巴郡石牛、戊午、雍石文、皆到于未央宮之前殿。臣與太保安陽侯舜等視、天風起、塵冥、風止、得銅符帛圖於石前、文曰『天告帝符、獻者封侯。承天命、用神令。』騎都尉崔發等眡説。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

この年、広饒侯劉京、車騎将軍千人扈雲、太保属臧鴻が天子の登場の予兆を上奏した。劉京は斉郡の新しい井戸を、扈雲は巴郡の石でできた牛を、臧鴻は右扶風雍県の石を上奏し、王莽はそれらすべてを受け入れた。



十一月甲子、王莽は元后に上奏した。



「神聖の極みである陛下は漢王朝の危難、十二代三七二十一の厄に遭遇し、天命を受けて私に天子の代行を命じ、孺子嬰を託し、天下を任せました。私は慎重に、危機感を抱き、陛下の意に沿わないことを恐れてきました。
宗室の広饒侯劉京は「七月中、斉郡臨淄県の昌興亭の亭長である辛当がある夜、「我は天の使いである。天は私に対して亭長へ「摂皇帝が真の皇帝になるべきである。もし私を信じられないというなら、この亭の中に新しい井戸がある」との言葉を伝えさせた」という夢を見ました。亭長が起きて亭の中を見てみると、確かに百尺もの深さの新しい井戸が出来ていました」と上奏しました。
十一月壬子冬至の日に巴郡の石でできた牛が、戊午に雍県の石に書かれた文章が、それぞれ未央宮の前殿へ到着しました。私が太保安陽侯王舜らと共にそれを見たところ、天から風が巻き起こり、塵が飛んで暗くなり、風が止むと石の前に銅製の割符、絹の絵図があるのを見つけました。その文章には「天が皇帝になるべき者の兆しを告げる。献上した者は侯となるべし。天命を受け、神の命令どおりにせよ」と書かれていました。それについては騎都尉崔発らが見て説を述べたところです。



上奏途中だがここで切る。




「車騎将軍千人」とは、車騎将軍が千人も任命されたとかそういう意味ではなく、「千人」という官名である。千人を指揮するという意味合いであろう。



なお、車騎将軍も太保も王舜のはずなので、今回の符命をもたらした者のうち半分以上は王舜の部下だということになる。


なんたる偶然(すっとぼけ)





(路)温舒從祖父受暦數天文、以為漢厄三七之間、上封事以豫戒。成帝時、谷永亦言如此。及王莽簒位、欲章代漢之符、著其語焉。温舒子及孫皆至牧守大官。
【注】
張晏曰「三七二百一十歳也。自漢初至哀帝元年二百一年也、至平帝崩二百十一年。」
(『漢書』巻五十一、路温舒伝)


「三七」とは、「人三化七」とかではなく、「3×7=21」のことであるらしい。


それを十倍した「二百一十年」の頃に漢王朝に危機が訪れる、と宣帝頃から予言していた者がいたというのである。



王莽のこの時代こそが漢の高祖から数えると二百十年経った頃であるので、皇帝の血統が途絶えかけている現状は予言通りだ、と言いうる状態なのだ。


皇帝即位を狙う今の王莽にとって「まさに今!漢王朝は存亡の危機である!」という状況は利益になるので、積極的にクローズアップしていきたい予言であったのだろう。