奔命

九月、東郡太守翟義都試、勒車騎、因發犇命、立嚴郷侯劉信為天子、移檄郡國、言「莽毒殺平帝、攝天子位、欲絶漢室、今共行天罰誅莽。」郡國疑惑、衆十餘萬。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


最近記事にした部分だが、「発奔命」とはいったい何のことか、確認しておこう。




益州廉頭・姑虵・牂柯談指・同並二十四邑皆反。
遣水衡都尉呂破胡募吏民及發犍為・蜀郡犇命撃益州、大破之。
【注】
應劭曰「舊時郡國皆有材官騎士以赴急難、今夷反、常兵不足以討之、故權選取精勇。聞命奔走、故謂之 奔命 。
李斐曰「平居發者二十以上至五十為甲卒、今者五十以上六十以下為奔命。奔命、言急也。」
師古曰「應説是也。犇、古奔字耳。犍音虔、又音鉅言反。」
(『漢書』巻七、昭帝紀、始元元年)

「奔命」とは、どうやら反乱勃発といった緊急時に、兵力不足を補うために徴発される兵士のことらしい。


予備役ということだろうか。




翟義の場合、郡が掌握しうる通常の兵力を抑えた上に、反乱討伐軍に対抗するために「奔命」の予備役兵をも徴発して共に自分の支配下に置いた、ということだろう。



多分、その性質上「奔命」は緊急時の制度なので、郡太守の権限で発する命令なのだろうから、東郡太守であった翟義ならたやすく徴発できたということだ。




こちらの記事の引用では「発奔命書」というものの存在がうかがえる*1


もしかすると、正式には郡が「奔命」を徴発すると同時に中央へ報告することになっていて(まあ当然そうだろう)、その時の文書は特別な袋に入れておく、ということなのかもしれない。

*1:当時の記事では少々違う解釈をしているが。