幻の列侯

是歲廣饒侯劉京・車騎將軍千人扈雲・大保屬臧鴻奏符命。
京言齊郡新井、雲言巴郡石牛、鴻言扶風雍石、莽皆迎受。
十一月甲子、莽上奏太后曰「陛下至聖、遭家不造、遇漢十二世三七之阸、承天威命、詔臣莽居攝、受孺子之託、任天下之寄。臣莽兢兢業業、懼於不稱。宗室廣饒侯劉京上書言『七月中、齊郡臨淄縣昌興亭長辛當一暮數夢、曰「吾、天公使也。天公使我告亭長曰『攝皇帝當為真。』即不信我、此亭中當有新井。」亭長晨起視亭中、誠有新井、入地且百尺。』・・・(後略)・・・
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽の居摂時代、「王莽が皇帝になるべきだ」という天からのメッセージを受け取ったと主張する者が複数いた。



そのうちの一人に「広饒侯劉京」という劉氏がいた。なお「広饒」は斉郡にある県である。


廣饒康侯國。菑川靖王子。
七月辛卯封、五十年薨。
地節三年、共侯坊嗣、十四年薨。
甘露元年、侯麟嗣、王莽篡位、絶。
(『漢書』巻十五上、王子侯表上)

だが、『漢書』王子侯表上に記録される「広饒侯」は「劉麟」だったことになり、「劉京」なる「広饒侯」の記録は見えない。




記録通りなら「劉麟」は50年以上在位していたことになる(ありえないわけでもないが流石にかなり長い)ので、王子侯表に書かれていない「広饒侯」が1人か2人いたのだろうか。



また、自分に協力した者はもれなく優遇する王莽が「広饒侯」をそのまま取り潰したというのも実は不可解な部分なので、実は王莽への天意を見つけたのは「広饒侯」ではない、別の侯だったのかもしれない。


ただし、斉郡にいたらしいので、斉郡にあったはずの「広饒侯」国というのは矛盾はない。



もしくは、「劉京」は「広饒侯」の子や孫であった(「子」という字が脱落した)、という可能性もあるかもしれない。




何にしろ、存在しない列侯が出てきたせいで、王莽への天意まで疑われてしまうではないか。