『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その44

その43の続き。



羣臣復奏言「太后修功録徳、遠者千載、近者當世、或以文封、或以武爵、深淺大小、靡不畢舉。今攝皇帝背依踐祚、宜異於宰國之時、制作雖未畢已、宜進二子爵皆為公。春秋『善善及子孫』『賢者之後、宜有土地』。成王廣封周公庶子六人、皆有茅土。及漢家名相大將蕭・霍之屬、咸及支庶。兄子光、可先封為列侯。諸孫、制度畢已、大司徒・大司空上名、如前詔書。」
太后詔曰「進攝皇帝子襃新侯安為新舉公、賞都侯臨為襃新公、封光為衍功侯。」
是時、莽還歸新都國、羣臣復白以封莽孫宗為新都侯。
莽既滅翟義、自謂威徳日盛、獲天人助、遂謀即真之事矣。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

群臣はまた上奏した。「太皇太后は功績を整え、徳を取りまとめ、遠い者は千年前、近い者は同じ時代、ある者は学問、ある者は武芸で封爵を受け、大小みな取り上げられない者はいませんでした。今、摂皇帝は天子の階段を上っており、宰相の時とは異なってしかるべきであります。制度の完成がまだであるとはいえ、摂皇帝の二人の子供の爵位は「公」とするべきです。『春秋』によると「善いことを善いことと認め、子孫にも及ぼす」「賢者の子孫は領土を持つべきである」と言っています。周の成王は周公旦の庶子六人を封建して全員に領土を与えています。また漢王朝の名相・名将である蕭何や霍光らも、傍系にまでその恩沢が及んでいます。摂皇帝の兄の子の王光は、先んじて列侯に封建すべきです。摂皇帝の孫たちについては、制度が完成したら、大司徒・大司空が名前を報告し、以前の詔書の通りにするべきです」



元后は「摂皇帝の子である襃新侯王安を「新挙公」、賞都侯王臨を「襃新公」とし、王光を「衍功侯」とする」と命じた。



この時、王莽は新都国を返上していたが、群臣はまた王莽の孫の王宗を新都侯にするよう上奏した。



王莽は翟義を滅ぼし、自らの威光と徳がますます盛んになり、天や人々の助けを受けているのだと思い、ついに本当の皇帝になろうと企むようになった。


王莽親族の封建。



群臣が「千年前の功徳で封建された者もいる」と言っているのは、平帝の時に周公旦の子孫や孔子の子孫が封建されていることを指すのだろう。


高い徳と功績のあった者の子孫は称揚され復興されてしかるべきという考えがあったのである。




また前回の封建祭りの際は「公」を使わなかったのに対し、王莽の子は二人とも「公」にしているのはなかなか興味深い。





にしても、最後の一文から考えると、少なくとも『漢書』史観では、王莽が本気で皇帝になろう、簒奪しようと考えたのはこの時である、ということらしい。



それまでは僭上の沙汰ではあっても本物の皇帝になろうとまでは本気では考えていなかった、ということだろうか。


「王宇 劉崇 翟義 邪魔者は全て消えた そして 他の者は混乱しながらも朕の事を信じきっている この状態からなら全土を支配するのも時間の問題 朕は新王朝の天子となる」的な。