『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その40

その39の続き。


十二月、羣臣奏請「益安漢公宮及家吏、置率更令、廟・廄・廚長丞、中庶子、虎賁以下百餘人、又置衛士三百人。安漢公廬為攝省、府為攝殿、第為攝宮。」奏可。
莽白太后下詔曰「故太師光雖前薨、功效已列。太保舜・大司空豐・輕車將軍邯・歩兵將軍建皆為誘進單于籌策、又典靈臺・明堂・辟雍・四郊、定制度、開子午道、與宰衡同心説徳、合意并力、功徳茂著。封舜子匡為同心侯、林為説徳侯、光孫壽為合意侯、豐孫匡為并力侯。益邯・建各三千戸。
是歳、西羌龐恬・傅幡等怨莽奪其地作西海郡、反攻西海太守程永、永奔走。莽誅永、遣護羌校尉竇況撃之。
二年春、竇況等撃破西羌。
五月、更造貨。錯刀、一直五千。契刀、一直五百。大錢、一直五十、與五銖錢並行。民多盜鑄者。禁列侯以下不得挾黄金、輸御府受直、然卒不與直。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


十二月、群臣は上奏した。「安漢公の宮殿と安漢公家の官吏を増やし、率更令、廟・厩・厨長と丞、中庶子、虎賁以下百人あまりを増やし、また衛士三百人を置きましょう。安漢公の住まいは「摂省」、役所は「摂殿」、屋敷は「摂宮」と呼びましょう」その内容は裁可された。



王莽は元后に言上して詔を出させた。「もとの太師孔光は既に薨去したとはいえ、功績は既に連なっている。太保王舜・大司空甄豊・軽車将軍甄邯・歩兵将軍孫建らはみな単于を誘う策を立て、また霊台・明堂・辟雍・四郊に関わり、制度を定め、子午道を開き、宰衡と心を合わせ徳を喜び、共に力を合わせ、功績と徳が明らかである。王舜の子王匡を同心侯に、王林を説徳侯に、孔光の孫孔寿を合意侯に、甄豊の孫甄匡を并力侯に封じ、甄邯・孫建に三千戸を加増する。」



この年、西羌の龐恬・傅幡らが王莽が土地を奪って西海郡を作ったことを恨み、反乱して西海太守程永を攻めた。程永は逃走し、王莽は程永を誅殺し、護羌校尉竇況を派遣して西羌を討たせた。



居摂二年春、竇況らは西羌を破った。



五月、王莽は新たな貨幣を作った。一枚で五銖銭五千枚に相当する「錯刀」、一枚で五銖銭五百枚に相当する「契刀」、一枚で五銖銭五十枚に相当する「大銭」で、五銖銭と共に通用させた。民間では不正にこれらの銭を鋳造する者が多かった。



列侯以下が勝手に黄金を持つことを禁じ、御府に提出させて等価を引き換えに与えることにしたが、結局等価交換されなかった。



Pokémon GOよりこまめにアップデートされる王莽の地位。アップデートのたびに少しずつ皇帝に近づいていく。今回は「率更令」「中庶子」といった皇太子の属官や、「宮」「殿」といった皇帝の住居・オフィスに与えられるべき名称である。




安衆侯の次は西羌が反抗。すぐに鎮圧されたようだが、西羌の恨みという王莽政権の闇が浮き彫りになるのだった。




王莽居攝、變漢制、以周錢有子母相權、於是更造大錢、徑寸二分、重十二銖、文曰「大錢五十」。
又造契刀・錯刀。
契刀、其環如大錢、身形如刀、長二寸、文曰「契刀五百」。
錯刀、以黄金錯其文、曰「一刀直五千」。
與五銖錢凡四品、並行。
(『漢書』巻二十四下、食貨志下)


王莽の新造貨幣三種については上記引用が詳しい。


大銭は五銖銭の二倍以上の重さで貨幣価値は五十倍。


契刀は刀を模した銭で、錯刀は「一刀直五千」という文面を鍍金してあるそうだ。



どの新造貨幣もマテリアル的な価値以上の額面を与えられているようなので、盗鋳が増えるのは当然だろう。




その一方で王莽政権側も金回収令で結果的には詐欺行為である。等価交換の法則を乱してはいけません。