身代わり三年の喪

九月、(王)莽母功顯君死、意不在哀、令太后詔議其服。少阿・羲和劉歆與博士諸儒七十八人皆曰・・・(中略)・・・攝皇帝以聖徳承皇天之命、受太后之詔居攝踐祚、奉漢大宗之後、上有天地社稷之重、下有元元萬機之憂、不得顧其私親。故太皇太后建厥元孫、俾侯新都、為哀侯後。明攝皇帝與尊者為體、承宗廟之祭、奉共養太皇太后、不得服其私親也。・・・(中略)・・・莽遂行焉、凡壹弔再會、而令新都侯宗為主、服喪三年云。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽の母は王莽が「摂皇帝」という皇帝一歩手前の段階で死去した。




そこで王莽らが困ったのは、いわゆる「三年の喪」に王莽が服するべきだが、それは王莽が権力の座から離れることを意味してしまう、ということだった。



そこで、王莽と群臣は、「王莽は王朝のため、太皇太后のための身体であって、自分の親族のための身体ではない。その代り、王莽の新都侯を受け継ぎ王莽の父の後継者という扱いになった王宗(王莽の孫)が王莽の代わりに王莽の母の喪に服するべきだ」という論を立てた。





王莽はそれまで親孝行であるとか清廉さであるとかといった美徳を武器にしてきた人物なので、「漢王朝の三十六日の喪さえ過ごせばおk」みたいなことを言うわけにはいかず、「自身は三年も喪を継続させずに三年の喪を遂行したという実績を作る」というムチャをするしかなかったために孫を人身御供にしたのだろう。




なお、王宗の父が王莽に歯向って自殺を命じられた王宇であったことも、王宗が人身御供扱いされた一因だったかもしれない。