四面楚歌ふたたび

於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長檥船待、謂項王曰「江東雖小、地方千里、衆數十萬人、亦足王也。願大王急渡。今獨臣有船、漢軍至、無以渡。」項王笑曰「天之亡我、我何渡為!且籍與江東子弟八千人渡江而西、今無一人還、縱江東父兄憐而王我、我何面目見之?縱彼不言、籍獨不愧於心乎?」
(『史記』巻七、項羽本紀)

項羽は「四面楚歌」の垓下の包囲を抜けて南下したが、いよいよ江東へ渡るという場になってそれを拒絶、そして散華することとなる。






閩越王無諸及越東海王搖者、其先皆越王句踐之後也、姓騶氏。秦已并天下、皆廢為君長、以其地為閩中郡。及諸侯畔秦、無諸・搖率越歸鄱陽令呉芮、所謂鄱君者也、從諸侯滅秦。當是之時、項籍主命、弗王、以故不附楚。漢撃項籍、無諸・搖率越人佐漢。漢五年、復立無諸為閩越王、王閩中故地、都東冶。
(『史記』巻百十四、東越列伝)

項羽が南下して向かっていたのは、少なくとも当初は彼の挙兵の地である会稽などの江東であったのだと考えられるが、その南側に広がっていたのは越人の支配圏である。




そして、その地の越の君主たちは秦によって地位を剥奪され、項羽もまた王位を復活してくれなかったため、項羽が滅ぶ前から漢に与していたという。






もし項羽が江東に渡ったとしたら、今度は江北の劉邦海浜の東越(ついでに横腹を呉芮が突くことになる)という両面に敵を抱えることになっていたのではなかろうか。



「四面楚歌」を脱してもまた「四面楚歌」になるところだったということか。