梅豉の役割

呉芮、秦時番陽令也、甚得江湖間民心、號曰番君。天下之初叛秦也、黥布歸芮、芮妻之、因率越人舉兵以應諸侯。沛公攻南陽、乃遇芮之將梅豉、與偕攻析・酈、降之。及項羽相王、以芮率百越佐諸侯、從入關、故立芮為衡山王、都邾。其將梅豉功多、封十萬戸、為列侯。項籍死、上以豉有功、從入武關、故徳芮、徙為長沙王、都臨湘、一年薨、諡曰文王、子成王臣嗣。
(『漢書』巻三十四、呉芮伝)

劉邦が秦を攻める際、呉芮の派遣した将である梅豉と南陽方面で出会い、梅豉はそのまま合流して共に武関を通って秦本国攻めに加わったのだそうだ。







もしかして、梅豉というのは呉芮が派遣した「あわよくば秦本国を攻めて秦を征服してしまおうという軍」だったのではなかろうか。つまり、楚懐王にとっての劉邦と同じ役割である。



だから、そのままホイホイと秦にまでついていってしまったのではなかろうか。





それ以上の確たる根拠と言うほどのものは無いが。