『史記』項羽本紀を読んでみよう:その43

その42(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181003/1538493134)の続き。





於是項王乃欲東渡烏江。
烏江亭長檥船待、謂項王曰「江東雖小、地方千里、衆數十萬人、亦足王也。願大王急渡。今獨臣有船、漢軍至、無以渡。」項王笑曰「天之亡我、我何渡為!且籍與江東子弟八千人渡江而西、今無一人還、縱江東父兄憐而王我、我何面目見之?縱彼不言、籍獨不愧於心乎?」乃謂亭長曰「吾知公長者。吾騎此馬五歳、所當無敵、嘗一日行千里、不忍殺之、以賜公。」
乃令騎皆下馬歩行、持短兵接戰。獨籍所殺漢軍數百人。項王身亦被十餘創。顧見漢騎司馬呂馬童、曰「若非吾故人乎?」馬童面之、指王翳曰「此項王也。」項王乃曰「吾聞漢購我頭千金・邑萬戸、吾為若徳。」乃自刎而死。
王翳取其頭、餘騎相蹂踐爭項王、相殺者數十人。最其後、郎中騎楊喜・騎司馬呂馬童・郎中呂勝・楊武各得其一體。五人共會其體、皆是。故分其地為五。封呂馬童為中水侯、封王翳為杜衍侯、封楊喜為赤泉侯、封楊武為呉防侯、封呂勝為涅陽侯。
(『史記』巻七、項羽本紀)


絶体絶命の危機を主に自分の武勇で乗り切ったらしい項羽



長江を渡れば丹陽・会稽という烏江まで来たらしい。しかも、亭長は船を用意していた。彼は項羽の味方だったのだろう。




ところが、「船に乗って江東へ行けば再起も図れます」との言葉に「天命だから渡ってもどうしようもなかろう。それに江東の人々に会わす顔が無い」と答え、乗船を拒否。



忠実かつ屈強な二十数名の部下と共に、迫りくる劉邦の騎兵隊に徒歩で渡り合う事となった。



項羽は単独で数百人殺したといい、流石のパワーを発揮したが、流石にもうアカンという窮地。まあおそらくは部下たちも全滅だろう。そこで、旧知の仲だった呂馬童なる人物に自分の首を差し出す事にして自殺。



だが、その首を呂馬童と一緒にいた王翳なる人物が掠め取り、首以外の部分は呂馬童や楊喜(一度項羽にビビッて退却した人)、楊武、呂勝がゲットしたという。



5体に分かれた項羽の遺体を持ち帰ったこの5人は、項羽に懸けられた賞金を山分けする事になったそうだ。



ちなみに、赤泉侯楊喜はあの後漢楊震の先祖だという事になっている。






正直、項羽は再起したい気持ちがあったのか無かったのか、江東に行く気があったのか無かったのか、どうもわからなくなる。





ここまで付いてきた部下は項羽が再起する事を願っていたのではないかと思う(だからこそ、ここまで付いてこれたとしか思えない)ので、項羽が長江を渡らないと宣言した時の部下たちの心には何が去来したのだろうかと考えると複雑な気持ちになる。天命で納得できたであろうか。