九月甲午、詔曰「夫婦人與政、亂之本也。自今以後、羣臣不得奏事太后、后族之家不得當輔政之任、又不得膻受茅土之爵。以此詔傳後世、若有背違、天下共誅之。」
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初三年)
魏の文帝曹丕は、臣下が皇太后へ上奏することや、皇太后・皇后の一族が輔政の職に就くこと、功績なく領土を与えられることを厳禁する詔を下した。
この命令は、もしかしたらこの事件が直接の契機だったりはしないだろうか?
始、(曹)洪家富而性吝嗇、文帝少時假求不稱、常恨之、遂以舍客犯法、下獄當死。羣臣並救莫能得。卞太后謂郭后曰「令曹洪今日死、吾明日敕帝廢后矣。」於是泣涕屢請、乃得免官削爵土。
(『三国志』巻九、曹洪伝)
曹洪が過去の経緯から曹丕に恨まれて処刑されそうになったところを、皇太后すなわち曹丕の実母が曹丕の寵姫である皇后郭氏に対し「もし曹洪が死ぬようなことがあれば、私はあなたを廃位してやりますよ」と脅したため、郭氏が曹丕に泣きつき、曹丕は曹洪を助けないわけにいかなくなった、という。
これは皇帝である曹丕からしてみれば皇太后の不当な政治介入、恫喝である。
皇帝にとって目上の存在であるため、皇帝にとって最も疎ましい存在になりうる皇太后を封じる必要性を痛感したのではなかろうか。
もっとも、実のところ最初に挙げた詔の方が郭氏の皇后への登位よりもほんの少しだが先なので、そのように考えようとすると曹洪伝の記事とは矛盾を生じるように思う。
とはいえ、ほぼ同時と言っていいくらいの差であるから、郭氏が皇后になることはそれより前から実質的に決まっていたことだろう。
そのような時期に曹洪処刑に皇太后が介入したとすれば、既に郭氏が皇后になっているかのように話が進んでもそこまでおかしくもない、と言えないこともない・・・かもしれない。
もちろん、間違いなくそうだ、とは思わないが。