文帝の永遠に続く禁制

黄初中、文帝欲追封太后父母、尚書陳群奏曰「陛下以聖徳應運受命、創業革制、當永為後式。案典籍之文、無婦人分土命爵之制。在禮典、婦因夫爵。秦違古法、漢氏因之、非先王之令典也。」帝曰「此議是也、其勿施行。以作著詔下藏之臺閣、永為後式。」
(『三国志』巻五、武宣卞皇后伝)

魏の文帝曹丕は、即位直後に自分の母である皇太后卞氏の父母(故人)に爵位を贈ろうとしたが、尚書陳羣の反対にあった。



経書では婦人が土地や爵位を与えられるという話はありません。秦がいにしえの制度に背いたことを始め、漢がそれをそのまま継承しただけです」



曹丕はその反対に感銘を受け、このような命令を下したという。



「この件は陳羣の言う通りであるから、(皇太后の父母への爵位贈呈は)施行してはならない。この詔は永久に保存し、末永く後世にまで引き継いでいくようにせよ」




おそらくは後漢が宦官と外戚によって乱され、ついには皇后の兄という外戚によって簒奪されたとの反省に立ち、外戚の勢力が伸長することを抑えようとしたものなのだろう。





至太和四年春、明帝乃追諡太后祖父廣曰開陽恭侯、父遠曰敬侯、祖母周封陽都君及敬侯夫人、皆贈印綬
(『三国志』巻五、武宣卞皇后伝)


あっ・・・。




魏王朝の初代皇帝文帝が末永く続くようにと定めた禁は、次の代に破られたのであった。




曹叡様は父の禁制をどんどんガバガバにしていくスタイルであったようである。