不思議な少年

搜神記曰、呉以草創之國、信不堅固、邊屯守將皆質其妻子、名曰保質。童子少年、以類相與嬉遊者、日有十數。永安二年三月、有一異兒、長四尺餘、年可六七歳、衣青衣、來從羣兒戲、諸兒莫之識也。皆問曰「爾誰家小兒、今日忽來?」答曰「見爾羣戲樂、故來耳。」詳而視之、眼有光芒、爚爚外射。諸兒畏之、重問其故。兒乃答曰「爾惡我乎?我非人也、乃熒惑星也。將有以告爾。三公鉏、司馬如。」諸兒大驚、或走告大人、大人馳往觀之。兒曰「舍爾去乎!」竦身而躍、即以化矣。仰面視之、若引一匹練以登天。大人來者、猶及見焉、飄飄漸高、有頃而沒。時呉政峻急、莫敢宣也。後五年而蜀亡、六年而晉興、至是而呉滅、司馬如矣。
(『三国志』巻四十八、孫皓伝注引『捜神記』)

『捜神記』によると、呉においては国境の守将は皆妻子を人質に取られており、これを「保質」と呼んでいたそうだ*1




そんな保質に取られた同士の子供たちが遊んでいるところに熒惑星を名乗る謎の子供が現れて「三公が除かれ、司馬が進みゆく」*2という予言を残して行ったのだそうな。






しかし当時の呉の政治は厳しかったため、誰もこのことを報告しなかった、という。



その子供を取り逃がしたことが罪に問われるか、あるいはあからさまに怪しい事件であり報告者の方が妖言を広めたと罪に問われそうだったというところか。



この事件があったのは孫休の時代なのだが、孫皓時代を髣髴とさせる感じである。


呉の政治は既に孫皓スタイルであったというか、呉は孫皓だけが特別アレというわけでもなかったということか、それとも当時はどこもそういう感じだったということなのか。




*1:将の人質は魏でも取っているので、呉だけというわけではない。

*2:もちろん、魏・呉・蜀の三君が司馬氏によって滅ぼされることを指す。